教育福島0140号(1989年(H01)07月)-025page
自然に身につくものであるかと思う。
子どもたちを見ていると、そのように思えてならない。日常化され何気なく発している多くのあいさつ「おはよう。いただきます。ごちそうさま。ありがとう。すみません」など、相手を思いやる心のこもったあいさつができるように心がけて行きたい。(塙町立塙小学校教諭)
我が師 安達太良山
中村 雅彦
今から三十数年前の安達太良山は、登山道も十分に整備されておらず、剥き出しの岩や倒木で登りにくかった。松の木をくり貫いた古い湯樋の割れ目から、至る所で立ち昇る真白な湯煙が、今も私の心に残っている。しかし、本当にそうであったのか………。三十数年前の安達太良山の光景は、いつしか私が空想の中で創り上げてしまったものかもしれない。登山道が踏み広げられ、空缶やビニール袋が捨てられる安達太良山を憂える余りのことかもしれない。
厳しくも麗しい安達太良の峰々
あれから毎年、いや春夏秋冬を問わず毎月、どれほど登ったことであろうか。山頂に辿り着かなくとも、三百回以上は登山道に足を踏み入れている。読者の皆さんの中にも、安達太良山に登った経験を持つ人が多いかと思うが、登山口から右に道をとり、橋を渡って七曲がりを登ること四十五分、平坦な勢至平に出る直前に、ウラジロヨウラク(裏白理路)が群生している。今時分、透き通るような赤紫の花を多数つけている。仏の頸にかける殊玉一理路)のように……。
このウラジロヨウラクを目に留めるようになったのは、二十年近く前である。しかしこの二十数年、わずかに背丈が伸びた程度であるが、よく観ると幹は太くなり、枝も繁り、花も年々多くなる。一年、二年という目で追うとその成長はほとんど見えないが、十年、二十年という目で観ると、過酷な自然条件下にあっても着実に成長していることがわかる。山に登る楽しみの一つでもある。
今、中腹から山頂にかけて安達太良山ではイワカガミ(岩鏡)の花が咲き乱れている。陽当たりの良い、比較的乾いた湿地には驚くほど大きな花をつけるものがある。また、イワカガミの名の通り、つやつやとした葉が、澄み切った青空を照り返し、勢いの良いものもある。一方、崩れた岩の下で、大きなハイマツの陰で、あるいは登山者に踏まれて潰され、息絶え絶えになりながら可憐な花をつけるイワカガミもある。そんなイワカガミが私は好きである。
障害児教育に携っていて、安達太良山から教えられることは多い。あのウラジロヨウラクやイワカガミが私に様々なことを語りかけるように。
次の日曜日、私はまた安達太良の山中をさ迷い歩いていることであろう。(県教育庁養護教育課指導主事)
小さな芽をみつめながら
藤田 典子
一年生の年度はじめの教室は、弱虫くんとの出会いである。
えんぴつをなくしたと言ってはメソメソするTちゃん。足が痛いと言ってはすぐ泣いてしまうSちゃん。口のまわりにカレーがついてしまい友だちに笑われ、カット怒るKくん。等々。
子どもたちと私の学習のスタートの日、大きな太陽・大木そして小さな小さな二葉の芽を黒板に描いた。「あっ、お日さまだ」「あっ、ちつちゃなはっぱだ」
子どもたちの思い思いのイメージで教室はいっぱいになる。「この小さな芽は、みなさんです」「えつ、ぼくたちー?」
「そして、この大木は、先生と今日から、仲よく勉強していって、この小さな芽を伸ばしていったときのみなさんです。そしていっか、太陽に届くよ