教育福島0140号(1989年(H01)07月)-028page
と台所で背を向けたままの妻の肩は、そのときの感動にまだひたっている様子であった。
それから、妻と純子は、そのクローバーを厚い本に大事に、しかも丁寧にはさみ、純子の第一号の宝物にしたのだ。
いっしょに行った次女の志穂も探したらしいが、三歳では四つ葉の意味がまだ分かっていないらしく、クローバーを何本も取って来て、「志穂もいっぱい取ったよ。本にはさんでね」と姉と同じように喜んでいた。本人は、心地良い疲れのせいか、気持ち良さそうに眠りこんでいた。
私は、ふとわずかな時間であるが、幼い日、そう、あの赤とんぼが飛びかう夕焼け空の美しさ、そして、小鳥の巣を見つけたときの喜びと驚きなどが、鮮明に思い出された。
昨今の私の日常生活においては、忙しさのあまり、自然に背を向け、感動や驚きから遠ざかり、自然の恩恵に感謝する心すら忘れてしまっているかのように思われる。
人間は、この美しい自然の営みと共に生きることで、自然から受ける様々な感動と深みのある感情が生まれ、人間性豊かな子どもに育つのではないだろうか。
したがって、我々は、この美しい大地、美しい空、美しい海を守り続けていかなければならない。
更に、子どもに、自然と触れ合う場と機会をできるだけ多く提供し、子どもと共に感動できる喜びを多く持ちたいものである。
この日、私の娘たちは、自然から最高の贈り物を得たに違いない。
私も、子どもから最高の贈り物を得たのである。
(会律坂下町立第一中学校教諭)
富士山の思い出
星 慶子
さわやかな季節を迎え、各地から山開きの便りが届くころになると、私はあの雄大な富士山を思い出す。
大学生活のある夏休みを富士山のふもとで過ごした私は、山小屋ヘアルバイトに向かった。山登りが趣味という訳でもないのに、山小屋の主人の後について海抜三千メートル、七合目まで登った。富士スバルラインの開通で、五合目までは車で誰でも身軽な服装で行ける。天気のよい日、すぐ近くに見える頂上に、簡単に登れそうに見えるのに、その道程はかなり厳しい。
山登りに慣れた人の後ろから、私は何度も何度も下界を振り返り、肩で息をしながら、休み休みついて行った。
古殿町の百歳の五十嵐翁は、健康、長寿を感謝し、世界平和を願って毎年富士山頂に立つということだが、それを思うと、息を切らして登った当時の自分が恥ずかしい。
山小屋のあった七合目あたりが、高山植物の限界で、本当にかれんな花が登山者の心を和ませてくれる。イワカガミやコケモモ。足元に低く咲くシャクナゲやハイマツ。厳しい寒さの中で岩場にしっかり根をはって、盆裁のように育っている。
私が初めて富士山に登った昭和四十年の夏、以前に南アルプスから移された雷鳥はまだ生息していた。ヒナ鳥を三羽つれた親鳥が、ハイマツの芽を食べており、足首に冬毛がまだ残った姿を間近に見ることができた。雷鳥の親子を双眼鏡で探すものも楽しみであった。
しかし、次の夏には、いくら探しても電鳥の姿を見ることができなかった。
道徳の副読本でもこの事実が紹介され、自然破壊を戒めていた。雷鳥を富士山でも育てようとする夢は、この年幕を閉じたようだ。
厳しい自然を体験したのは、台風のとき、風速三十メートルの強風の中で、山小屋ごと吹き飛ばされそうになったときである。下から吹き上げてくる雨と風、岩にへばりついてロープをしっかりにぎりしめ、隣の小屋へ行く。こんなことは、下界では想像もつかないことである。
しかし、台風が去ったあとのあのさわやかな光景は、山登りの魅力である。その日、頂上に立った私は、まさに、地図帳を広げたように眼下に広がる富士五湖や駿河湾、遠くアルプスの山々などを展望することになる。そして、御来光は、まさに朝日のマークのごとく広々とした空間を照らし、自然に手を合わせたくなる厳かな一瞬である。
又、眼下に広がる雲海、シュークリームのような雲の中で光る雷、そして高山植物と雷鳥、私にとって貴重な出会いであった。
山登りの魅力は、こんな自然との出合いにあるのかもしれない。
その後、教員になってから、同僚たちと何度か頂上を目指したが、あの日の光景には、めぐり合えなかった。でもこのような思い出が、毎日の生活の中でささやかな安らぎになっている。
(会律若松市立東山小学校教諭)