教育福島0141号(1989年(H01)09月)-027page
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が、私の胸に湧いてくる。
「朝もや晴れて…」子どもたちが元気に歌う校歌が、夏の山々にこだましている。阿武隈の山なみも、今、夏真っ盛りである。
(浪江町立津島小学校教諭)
海へ
日下部 文 紀
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その日、はるか遠くの沖を眺めるゆとりもなく、足元の砂をさらっていく澄んだ海水にめまいを感じて立っていた。
私が、初めて海を見たのは小学校の高学年になってからだ。それ以来、季節も場所も異なるいくつもの海を見た。ただ、海を見るという目的だけのために、夜更けの汽車に乗ったりもした。海は、特別な感情をいくつもかきたてる。文学作品に、一瞬、海があらわれただけでときめきを感じる。海に暮らす人々には、日常でしかないありふれた光景も、私には特別な情景に映る。
もちろん、美しいだけではなく、やりきれないような人間の暮らしと結びついている海も知った。しかし、それでもなお、いや、それだからこそ、海は複雑な表情をたたえて、私を呼ぶ。
その日、私は、宝石を陳列するみたいなガラスケースにおさまっている美しい大粒の枇杷をため息をつきながら眺めていた。小学生の学年旅行の時で確か福島市のデパートであった。その高価な枇杷を二個、迷ったあげくに買った。
不思議なことに、枇杷と波打ち際でのめまいとは、別の日の出来事なのにひと続きの記憶となって、しっかりと刻まれている。山育ちの私にとって、どちらも、「ここならざる土地」へのあこがれをかきたてるものだったのだろう。
山育ちといっても、山のことはまるでわからない。実家の近所のおばさんが松茸を毎年とってくるとか、わらびやきのこを山ほどとり、一年分を樽に塩漬けにするなどと聞くと、両親ともそうした暮らしとは全く無縁の生活をしていたことに、今更のように驚く。
父は、農家の長男として、明治も三十年代に生まれた。新しくて、珍しい作物や花卉を何種類も栽培した。甘い香りのするピンクや鮮やかな黄色いバラが庭に咲き誇っていた。自分で建てた小さな温室で、ベゴニヤや風変わりなサボテンを育て、アスターを畑で作った。どれも、稲作以外の現金収入がめあてだったが、成功したのは梨畑ぐらいだったろう。それでも、梨畑の片隅に、新種のぶどうを何本か遊びのように育てるのを忘れなかった。最も新しい成果は、南国生まれで、鳥の名を持つ金色の果実を村で一番最初にたわわに実らせたことだ。
父の仕事も見方によれば、全くの無駄骨である。採算がとれなかったのだ収益をあげるために必要な、目標の明確化、計画性、効率性がなかった。だが、父は研究熱心で、とても真剣に、新しい作物に挑戦し続けた。手元にはいつも新しい雑誌や本があった。
長男を早くに亡くすという不運も重なり、先祖の残した貴重な田畑を失うばかりであった。しかし、私は、それもひとつの人生と理解できるような気がしている。本当は、役場に勤めたかったと、土から離れたいというささやかな望みを語ってくれたことがある希望がかなえられたところで、父の人生にどれほどの変化があったろう。
それよりも、私は父の後ろ姿に、「ここなら、ざる土地」を求め続ける人間の姿を見てしまうのだ。
(県教育庁文化課文化財主査)
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雑感−教師十年目−
佐久間 由美子
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よく動く口、輝く瞳、そして疲れを知らない体。思い思いに行動している子どもたち。彼らのかん高い声が教室中に響き渡り、そのエネルギーに押しつぶされそうな思いで初めて子どもの前に立ったのは、今から十年前。今年度は、四度目の一年生担任をしている。思えばあの頃は、学級集団としての動きにばかり気をとられ、一人一人を見つめてその動きを把握することが、十分にできなかった。また、当然のことながら、不適切な指示、未熟な指導技術では、子どもたちは、こちらが思ったようには動かなかった。
この九年間、私は低学年を担任することが多く、我が子も二人となったためか、私の、子どもへの目の向け方や指導の仕方が、少しずつ変わってきた。「教師」としての目で見ることはもちろんのこと、「母親」としての目で見
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