教育福島0142号(1989年(H01)10月)-023page
随 想
ずいそう
先生絵顔でいて
吉 田 正 子
先生ががっかりしていると、
ぼくたちもがっかりする。
先生がさみしそうな顔をしていると
ぼくたちもさみしくなる。
先生が笑顔でいると、
ぼくたちもうれしくなる。
先生、いつも笑顔でいて。
ぼくは、先生の笑顔が大好きです。
これは、四年生から担任しているU男の日記である。どちらかというと、注意されることが多い子である。これを読んだとき、私はドキッとさせられただけでなく、こみあげてきそうな涙をこらえるために、ノートを握りしめたまま教室を離れてしまった。
職員室にもどると、自宅の机の前の額に入れてあるものを思い出した。それは、小学校で教育実習をしたときの総合反省のレポートである。『心で教える、心で教わるためには、
こどもの心を開くような場と、機会をつくること、つまり、教師がこどもの前に立ったときには、笑顔で話したり、聞いたりしていることが必要だということはないか。…また、こどもと接するときはこどもの内にある心を洞察し、どんな心を持って接しなければならないかを考えなければならない。…』
今、改めて読み返すと、赤面するような文章ではある。しかし、初めて教壇に立ったときの、新鮮で、正直な思いがストレートによみがえってくる。それにしても、教育実習のときにご指導いただいた『教壇に立つときは、笑顔で…』ということを、いつも心がけていたのに、今の自分は、顔をひきっらせながらも笑顔をつくろうとしたり、ときには、こどもたちとはまったく関係のない感情までも、そのまま教室へ持ち込んでいることに気づき、情け無くなってしまった。
今年は、教師になって八年目になる。教壇に立っても、こどもの心がいくぶん見えるようになり、六年生のこどもたちを自由に動かせるようになったつもりでいた。しかし、こどもたちには厳しくとも、自分自身に対しては、たいへん甘く、わがままになってきていたのであろう。ちょっと乱暴な字ではあるが、どれほど切ない気持ちで書いたものか、U男の日記は、八年前の自分に引きもどし、鏡の前に立たせて、自分の心を見つめ直させるほどの力を持っていたのである。
今では、教室の机のうえにも、U男の書いた日記と、教育実習のときの総合反省の縮小コピーが、裏返しになってはさまれている。
放課後、こどもたちが帰って静かになった教室で、時折、そっと出しては読み返すことがある。そして、棚の上の鏡を取り出し、じっと自分の顔を見つめることもある。心で教え、心で教わることの難しさを痛感しつつも、自分の顔もなかなかいいな、などと思いながら。
(郡山市立福良小学校教諭)
目のかがやき
鵜 沼 秀 雅
「教頭先生、お電話で−す」の呼び声に、息急き切って受話器をとる。
「うぬまひでおくんでしょ」
「いや、ちがいます」
「あれ、うぬまくんでしょ」
「はい、そうです」
ちょっとかすれた聞き覚えのある声、この声は多分中学時代の同級生O君だ、
「ひでおくんでないの」
「いや、ひでまさだよ」
顔で笑いながら、声の方では、旧友の名を間違えるなんて失礼ななどといったやりとりを聞いていた職員室の同僚は、くすくす笑っている。
「え、それでは、この名簿の名前間違っているのか」
つまりは、同級会を二十七年振りに開くので、ぜひ参加して欲しいとのことであった。転勤ばかりしている私を