教育福島0142号(1989年(H01)10月)-027page
きぬかなければならない子どもたちにとって、社会の変化に対応できる「たくましい心」を持つこと、つまり、知識の習得はもちろんだが、学び方を学ぶことの方が、より大切になってくると思う。また、私の中学生時代を思い返すと、知識の量が重視されていたように思われるが、これだけ種々雑多な情報が溢れている現代では、それらをすべて、知識として覚えることは無理である。したがって、これからは、いろいろな情報の中から、自分に必要なものを取捨選択し、知識として身につけようとする意欲や能力の育成が必要とされよう。たいへん難しい課題ではあるが、周囲の協力を得ながら、地道に取り組んでいきたいと考えている。
また、「生涯学習」ということも良く言われるが、中学生時代の担任の先生が、私たちの卒業に際してこんなことを話されたのを今でも覚えている。
『中学校卒業後は、いろいろと難しい問題に直面することがある。そんな時、自ら解決の方法を考え、それを試みながら、自らその問題を解決していかなければならなくなる。そして、一つの問題を解決したかと思うと、また新しい問題が生まれてくる。その繰り返しになる。途中でくじけることなく、勇気と信念と忍耐力と根性を持って、時代にとり残されない人になるためにも、生ある限り学習を続けてほしい』母校の教壇に立つ機会に恵まれた今、改めてこの言葉の持つ意味の重要性を認識し直し、子どもたちとともに学び続けていきたいと思っている。
(須賀川市立大東中学校教諭)
生涯学習と報徳
猪 狩 正 志
唯一の社会変革の方法は、国民に「自ら学ぶことをすすめること」であるという生涯教育の概念は、フランスの教師ポール・ラングランが戦後の姿を思い描きながら、レジタンスを戦うなかで生まれたといわれる。
この生涯教育は、パリのユネスコ本部において提唱され、昭和四十年代以降の我が国の社会教育にも取り入れられ、二十一世紀を目前にひかえた現在では全国の市町村において「生涯学習」という名称による推進事業のひとつとなっている。そしてそこでは、「むらおこし、まちづくり、ひとづくり」などといったスローガンを掲げながら様々な活動が行われている。
ところで、社会教育においては「学習指導要領」に相当するものが存在しない。そこで、「生涯学習」の場ではいろいろな学習の試みがなされても良いのではないかと常々思っている。
例えば、「自ら学ぶとは?」「村おこし、人づくりのノー・ハウ」をといったときに学校教育の理想の教師像であっても、学園経営の面では失敗の連続であったペスタロッチでは、安心してその指導を受ける気にはなれないと思うのである。むしろ十九世紀の農村のむらおこしに影響を与えた二宮尊徳の報徳の教えの方が、説得力がある。この教えを「御仕法(ごしほう)」として導入した相馬藩などでは、これを国土再建計画と理解して水利事業や荒れ地開発などに成果をあげたが、これにとどまらず他の地域との交流や多くの人づくりをおこなっている。
『二宮翁夜話』に「わが道は、人々の心の荒蕪を開くを本意とす」とあるように、彼は社会教育に重きをおく、心田開発の実践的教育者であった。
教えの核となる「至誠実行」は、生活を豊かにするための基本的条件として誠実さと斬新な発想をもつ実行力を重視する。過疎と高齢化など難しい問題をかかえる地方の町おこしに取り組む者になにかを創り出そうとする気構えは不可欠である。
教えの第一とされる「推譲(すいじょう)」は、他人または社会のために貯え奉仕する考えを含み、ボランティア精神と合致する。「勤労」は、この推譲のためであり、特に調和のとれた生産活動を勧めている。この勤労.にゆとりをつけるための「分度(ぶんど」Yという生活のケジメは、現代の家庭の教育力の回復を図るうえでも重要な意味をもつものであると思う。
さらに、「書籍を尊ばず、故に天地をもって経文とす」「学者は水をはねかえす塗り盆」という言葉にみられる自ら学ぶ姿勢と学問を使いこなす力をつけること即ち、実学の奨励は「現代の教育の不足するところを指適し、社会的適応力を養うためのリカレント(循環)教育を推進する生涯学習の理念と符号する。
尊徳の教えを、ケチの勤倹貯蓄の貧乏哲学と評するだけでなく、真の実像とその教えを学ぶ試みは「生きることを自ら学ぶ」という生涯学習の定着を図るうえで多くのキー・ワードを与えてくれるようである。
(県北教育事務所社会教育主事(東和町派遣))