教育福島0142号(1989年(H01)10月)-028page
中年の咳き
遠 藤 哲
「近ごろの若者は……」と我々はしばしば嘆き、吐き出すように声高にもの言う。しかし「近ごろの中年は……」といったことはあまり耳にしないのか、はたまた中年なるが故に耳傾けるのを嫌うのか聞こえてはこない。これ中年のひとりごとであろうか。
広辞苑によれば中年とは「青年と老年との中間の年頃、即ち四十歳前後の元気旺盛の頃」とある。人生八十年といわれる今にあって、ちょうど折り返し点に立ち止まり嘆息まじりに己が先を探り出そうともがき、肉体的な若さとも折り返しの別れの秋なのだろうか。先入観とは恐ろしくも若笑ものだが、確実に四十歳過ぎのころより自他ともに「中年ですよもう」と鼻うたを口ずさむように軽やかに言えるものである。開き直りの心境ではある。
日ごろ多く見聞きする若者たちの様子や話し振りにおいてしばしば首を捻り難解な問題を突きつけられるような気分になるのが、会話における言葉である。一瞬なに語を話しているのか戸惑い考えつつ相手を覗き込み、やがて解説つきで納得する場がある。楽しげな会話、怒気を含んだ会話、荒々しい会話、意志伝達の会話などにそれぞれ必要かつ大切にすべき言葉が存在する。それを使い分け、駆使しようと努力している若者たちも多い。
しかし中年ものは若者たちに、適切な言葉遣いと思いやりのある言葉を求めている。互いによりょく知り合おうとする時、どうしても自分の心の正直な部分が働き出す。それが思いやりの言葉になるのではなかろうか。
老人と言われる人と話すことが若者と話すことよりも好きである。相手の言葉には生活の匂いと人生の彩りが幾重にも織り込まれ、その人の癖なり方言なりが自分の言葉となってぶつかってくる。相手のまるごとを理解できそうに思えるものである。むしろ相手に見透かされる思いさえしてならない。
若者の言葉を理解する「良き判定者となり得る標準として、第一に、経験が豊富である。二に類似の経験をもつ。三に知能の働き、五に自己洞察のすぐれていること。六に社会的(対人的)熟練と適応。八に審美的態度。第九は内面的感受性」−以上、ことばと人間関係、入谷敏男より引用−この引用部すべてが、この中年ものには欠けていたことを改めて強く知ったのである。
とすれば、思いやりはおろか「確実な言葉」も求める資格はあるまい。しかし今からでも遅くはない。ひとつだけ若者に勝てるものがある。甲羅が堅いことである。
かれら若者に考える時間と感じるときを与え、ともに学ばねばと思うようになってきた。中年を大きく踏み込んだいま、せめて己が国の言葉をより愛し適切に使う。そして美しく話せる中年でありたいと願っている。
(県立福島商業高等学校教諭)
生徒から学ぶこと
半 沢 一 寛
五月、校内陸上競技大会が行われた。個人競技ではあるが、クラス対抗でもある。一年担任の私は、この時期、陸上大会で優勝することが、今後の学級経営を行う上で、大きな意味を持つものと考えた。
メンバー選出になったが、複数の小学校から集まっていることもあり、なかなか決まらなかった。私ももちろん、誰が速いのかもわからないため、すべて生徒にまかせてみた。それでもなんとかベストと思われるメンバーが決定したようだ。
大会が近づくにつれ私は、とにかく優勝を目指してがんばろう、勝たなくてはダメだと声をかけ、また、「やる時はやる」を学級目標の一つにかかげているので、これも前面に押し出した。
ところが、生徒の一人が梱人ノートに次のようなことを書いてきた。「先生は、優勝、優勝と毎日奮っているけど、優勝することが目的なんですか?走ることが苦手で、クラスの足を引っ張る人もいます。そんな人でも一生懸命がんばれば、たとえビリでもいいじゃないですか。先生は、勝つことしか考えていないのですか」
確かにこの生徒の言うとおりである。陸上競技などには、得意・不得意があるのにもかかわらず、優勝させることによってクラスがまとまり、盛り上がっていくのではと単純に考えていた