教育福島0142号(1989年(H01)10月)-049page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

教育福島0142号(1989年(H01)10月)-049page


博物館ノート

江戸時代の若松城下

陸奥之内会津城絵図

江戸幕府は、藩境・道路・山川なとの変化や新田開発に伴う石高の増加などを把握するため、諸大名に命じ、正保元年(一六四四)、元禄九年(一六九六)、天保六年(一八三五)の三度に亘り国絵図を作成させました。このうち、最初の正保の時には、諸国の城郭とその岡辺地域を描いた城絵図も同時に作らせました。

写真の「陸奥之内会津城絵図」は、命を受けた会津藩が、正保三年に幕府に提出した所謂「正保の会津城下絵図」で、故山口孝平氏(会津若松市)が寄贈されたものです。この絵図は、幕府の絵師成田市之丞によって仕上げられた縦二・五五メートル、横三・〇二メートルの大きなものです。

お城の名称は、現在「若松城」とか「鶴ケ城」とか呼ばれていますが、この資料の表題から、江戸時代には「会津城」が正式な名称であったことがわかります。

会津藩二十三万石は県内最大の藩で、その中心地若松は、東山四・二キロメートル、南北三キロメートルの大きな城下町でした。絵図からも、お城を中心に、土手と堀によって、藩士の居住する郭内と、町人や下級藩士の居住する郭外に分けられ、都市計画に基づいて整然と区画されていたことがわかります。

この絵図は、加藤明成が寛永年間(一六二四〜一六四二)に会津城を増改築した以降の城下絵図としては、現存する最古の貴重なもので、戊辰戦争の時、会津攻撃のために西軍が携行していたものと伝えられています。

城郭付近(部分)

城郭付近(部分)

陸奥之内会津城絵図

陸奥之内会津城絵図


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。