教育福島0143号(1989年(H01)11月)-024page

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いただいた時のことを思い出しました。

「教科指導や学校事務は、やって当たり前。それにプラスして部活動の指導をやって一人前だ。子どもたちは、勉強をするためにだけ学校へ来ているわけではないよ。なかには、部活動を楽しみにし、それだけをやりに来ている子どもたちもいるんだ。ほら、子どもたちが、先生が来るのを待っているよ」

そう言われて校庭を見ると、一生懸命にボールを打ち、ボールを追いかけながらも、時折、職員室の方をうかがっている子どもたちの姿が目にっきました。

その頃の私といえば、教材研究をすることで頭が一杯で、部活動の指導どころではありませんでした。しかも、私にとっては、ソフトボールというのは、遊び程度の経験しかなく技術指導などは夢の又夢の話で、ましてや、勝つための指導など、天地が引っくり返るぐらい難しいものと思い込んでいました。そんな思いもあってか、校庭に出ていくということが億劫(おっくう)になり、私を部活動の指導から遠ざけていたのかも知れません。そんな時のA先生のご助言は、私の胸を強く打ち据えました。確かに、どの子どもたちも、『勝つ』ということを目標に掲げて、汗まみれ、泥まみれになりながらも、一生懸命に、部活動の練習に取り組んでいます。そんな彼女らの努力を認めつつも、さほど注意を払わなかった自分が恥ずかしくなりました。それ以来私は、勝敗にこだわるよりも、部活動を通して『何を』学ばせることができるか、そして、部活動を終えた時に、『何か』子どもたちの心に残すことができるかに重点を置いて、彼女らと接するようになりました。

この秋の中体連の新人戦大会では、本校のどの部も、それぞれに立派な成績を残しました。我がソフトボール部も、準優勝という成績を残し、今は、県南大会に向けて、猛練習をしています。私も、大声を出して、ノックの雨を降らせています。部員それぞれの心の中に、それぞれの『何か』を残してくれるようにと祈りながら…。

(石川郡浅川町立浅川中学校教諭)

 

遠藤牧朗

 

らが、次々とカラオケマイクを握った。相変わらず音程はだいぶ狂っていた。

 

今年一月、卒業生の同級会があった。音楽の授業が大嫌いだったはずの彼らが、次々とカラオケマイクを握った。相変わらず音程はだいぶ狂っていた。

私が五年前、平田分校に赴任と同時に担任した、たった九人の男ばかりの内の七人である。山菜とり、きのことり、私の家でのお茶菓子つきロングホームルーム、思い出深い彼らである。しかし、同級会に集った内の三人は中途退学者であった。彼らにとっては六人が卒業したというよりは、九人で入学したという事実の方が重いらしい。退学者を含めた同級会に、私はしたたかに酔った。退学した生徒が言う。「先生、生徒に退学するなって強く言ってくださいσ退学した翌年おやじが死にました。勤めていた整備工場をやめて別の会社に移ろうとしましたが、中卒だっていうことでずいぶん苦労しました」私は絶句した。「将来苦労する」なんてセリフ何十回この生徒に向かって言ったことか。でも、当時と違い、がっしりとした体をもち、若労を重ねてきたであろう生徒に、「だから言ったろう」などと簡単には言えなかった。

教壇に立ち、十年が過ぎた。担任したクラスから退学して行った生徒は、前任校、現任校合わせて五人いる。二年に一人の高い割合いだ。理由は様々であるが、結局、本当のことは私にはわからない。多分彼らにもわからないのだろう。

学者や医者は言う。登校を無理に促すと精神的な負担になるのですべきでない。

自室に閉じ込もり、風呂にも入らず、両親とも顔を合わせず、私だけを部屋に入れた生徒。カーテンをしめきった暗い部屋で、雑談したり、テレビのゴルフを二人で黙って見つめていた。登校を促す機会もなく、二年後に退学。

ある先生は言う。教師の情熱こそが大切だ。学校に連れて来なければ勝負にならない。

生徒の部屋に上がり込み、有無を言わさず車に乗り込ませて連れてきた。あと少しがまんすればバイクの通学許可ができるとか、将来ロクな人間にならないとか、思いつく限りの言葉で説得した。「おれ、勉強全くわかんないし、おもしろくない。今働けば一日四千円になるんですよ」この同級会に集った一人は、二年の十二月で退学。

現在、出席日数ぎりぎりの生徒がいる。家庭訪問して、雑談しながら夕食をごちそうになってきたり、有無を言わさず車に乗せて来たり。ともかくも卒業させることが担任の仕事だ。いや、これほど来たくない学校に何で来させ

 

 

 

 

 


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