教育福島0143号(1989年(H01)11月)-025page

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る必要があるのか。毎度の自問自答。

先日、自宅の玄関に栗がいっぱい入ったビニール袋がそっと置いてあった。すぐにわかった。三年前に退学した、畑に栗が七本ある生徒の仕業だ。

(県立小野高等学校平田分校教諭)

 

神無月雑感

渡邊日向

 

云々」果たしてやり直して鳴った音は前とは全く異質の響きに変わっていた。

 

過日、機会に恵まれ、ある在京オーケストラのゲネプロ(総練習)を聴くことができた。指揮者が登場し、間もなく序奏が開始される。と、主部に入る手前で指揮者はおもむろに動作を止め、こう呼びかけた。「今のはベートーベンの音じゃないよ。音が浮わついている。もっと刻んで。正確にベートーベンの音楽を再現させねばならん。云々」果たしてやり直して鳴った音は前とは全く異質の響きに変わっていた。

これを耳にした時、私は今まで当然として無意識に受け止めていた事実を改めて認識させられた思いがした。すなわちベートーベンという作曲家の作品がいくら偉大なものと認められていても楽譜のままでは作品として成立し得ないこと。演奏家があって初めてベートーベンの偉大さを伝えることができること。更にその音符は個々の演奏家の解釈により、全く変わったイメージをもって聴き手に伝わるということである。音楽の場合、作曲家と聴き手の間に演奏家が介在するのである。そして各々作曲家の真実に迫ろうとする意図が同じであるにもかかわらず、その表現は、楽譜の解釈により異なってくるのである。

我々聴き手は胸の打たれる演奏に出会った時に、それを名演と呼び、偉大なる作曲家のその優れた伝達者たる演奏家を尊敬することになる。

しかし、考えてみるとこうした関係は別に音楽に限られたことではないように思われる。

例えば、釈尊は仏教という思想を創り出したが、自ら伝達者としての役割も果たした。随機説法という時に応じ人に応じ臨機応変に説き分ける卓越した能力を発揮したのである。釈尊の場合、全ての指揮者の役割を果たしてしまっているといっても過言ではあるまい。更にその弟子達もその法を学びながら、それを解釈し、伝達者として仏教を普遍宗教にまで高めた。釈尊の教えは経典として残っているが、それを現実に生きる我々に生きた教えとして説き広めるためには弟子達の活躍が必要だったのである。そして法の優れた伝達者は、やはり高僧として崇められたのである。

真実を伝える伝達者の優劣は確かに受け手に大きく作用する。それでは優れた伝達者たる条件は如何なるものであろう。答えは単純ではないと思う。しかし、指揮者にしても求法僧にしても修行を重ね、その世界にどれだけ広い視野を持てるかということが大切ではないか。さらに時々の環境及び実態に合わせて思考する態度こそ必要であると思う。指揮者はオーケストラの実態に合わせた音楽作りを心がけ、聴衆のレベルに合わせた曲目を選ぶ。そして釈尊は随機説法を以って大衆に接した。

私自身も教育という世界に携わるものとして心しなければならない。教育の理念をいかに解釈し、生徒に伝達するか。それも能力、環境の違う生徒達に同じ本質を伝えねばならないのである。理想を釈尊の随機説法に求めるならば、その境地に達するのは至難だ。しかし少なくとも目標は見えている。たとえ徒労であっても我々は優れた伝達者たるべく、その研鐙と修行の姿勢を求法僧の如く持たねばならないと思う。

(いわき市立小名浜第一中学校教諭)

 

小さな命の大切さを

佐々木宏子

 

ころにもどるんだよ」と口々に、チョウとの別れを惜しんでいる子どもたち。

 

うっすらと額に汗ばむ五月のある日、二階のベランダから、紙吹雪がとぶように、白と黄色のチョウが一斉にとび立った。「ワーきれい」「さようなら元気で」「仲間のところにもどるんだよ」と口々に、チョウとの別れを惜しんでいる子どもたち。

このチョウは、子どもたちが理科の勉強で、卵から幼虫、成虫と育ててきたチョウである。自分たちで、一生け

 

 

 

 

 


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