教育福島0143号(1989年(H01)11月)-028page
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学年が、本県に修学旅行に来た時は、まさにバスの大軍団でした。
行事も大変です。たいてい学年単位になりますが、全校生千六百名にもなるのですから、体育祭での組み体操などは壮観でした。卒業生を送る会など県の文化会館を借りるほどでした。今思うと夢のようです。我々は一兵卒でしたが、企画運営された先輩諸先生の御苦労にはあらためて敬意を表します。
この学校は制服なし、常時ノーチャイムでした。バス通学などで時計所持者が多かったので、時間を意識して行動する習慣はまずまずでした。制服についての議論もよくあり、保護者、生徒共に賛・否・中立それぞれ三分の一ずつでした。現実には男子の多くは学生服であり、女子もセーラー、ブレザー中心にほとんどが常識の範囲で収まっていました。これらは「自主」を重んじていたわけです。
こんな大規模ですから問題が起きなかったわけはありません。しかし、その割には大きく発展することなく収拾されていたと言えます。それには強い指導あり、心に響かせる指導あり、何よりも創立当時の情熱を持ち続けた先生方のリードの下に、若い我々が動けたということ、また大規模という問題意識から、学年の歩調がそろっていたことなどが挙げられます。
都市型団地の子どもたちで多様な個性・能力を見せた彼らももう二十三、四歳。ちらほら便りも続きますが、プールわきに植樹したクラスのポプラの木が、再訪した時にずいぶん大きく育っていました。
今は都市交通モノレールの走る千葉市での若い頃の経験、本県に戻って、いわきや地元で学ばせていただいた経験。いずれも微々たるものですが、世の中も生徒も変わりつつある昨今、経験ばかりでは対応し切れないような戸惑いの中で、あの頃の熱意を思い起こし、原点を探りつつ、先輩同僚の先生方の知恵を拝措し、力添えを受けながら、毎日の教育活動にいそしんでいくことをあらためて考えるこの頃です。
(白河市立白河第二中学校教諭)
本物を求めて
寺島直紀
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学生の時分、帰省をし、部屋かたづけの最中、懐しい小学校の卒業文集が、出てきた。文集には、「将来は地理を学び、剣道を続けたい」と、書いてあった。その願いは、私の脳裏からすっかりと消されていたが、その境遇に置かれている自分に驚き、嬉しさも込み上げてきたのを、今でも覚えている。
その後、教職につき、やはり特に、地理と剣道にこだわり続けている。
ただ、自問自答してみると、どちらも中途半端になっている気がしてならない。
なぜ、地理と剣道なのか。地理が好きなのは、人一倍、見知らぬ土地に興味・関心を持ち、紀行文を読んだり、海外取材番組を見たりしてきた自分があった。しかし、単なる野次馬的生格からなのである。剣道にしても続けてきたのは、単に止めなかっただけのことである。
この夏、下郷町へ旅した。1高剣道部に同行させて頂き、二泊三日の合宿であった。会津のふるさとの深さ、人のあたたかさを、しみじみと味わった。三日間というものが、異次元の世界へ迷いこんで戻って来たかのように思える程、貴重な体験をさせて頂いた。お世話になった道場は、塾と呼ばれる。塾生は、会津に伝わる「一刀流溝口派左右転化出身秘太刀」という、形を学んでいる。
午前の稽古が終了し、昼食という時であった。夏の陽射しの眩しさの中、河原に坐っていると、蝉の鳴き声、川のせせらぎ、時折通る機関車の鉄橋を渡る音が聞こえてくる。河原からは、バーベキューの煙が立ち上り、生徒達は無邪気に飛び込み泳いでいる。こんな風景の中、塾生は懸命に肉を焼き、やきそばを作ってくれた。川から上ってきた生徒は、たらふく食べ、また泳ぎだした。なんと、塾生が食事をとったのは、太陽も大分西へ傾いた頃であり、後片付けも彼らだけでやったのである。
この姿に私は、何とも言えない感動を覚えた。たとえ年下の生徒であろうとも、何一つ曇った気持ちなどなく、客人として、同じ修業をする仲間として、持てなしてくれたのであった。彼らは、決して物欲に流されず、剣を通じて心の豊かさを求め、本気で生きているのだ。
今からでも遅くないと信じ、怠惰な自分を戒め、甘えのある自分を戒め、世間体を気にする自分を戒め、本気で地理と剣道の両立を目指したい。良い意味での欲を持ち、言い換えれば夢というか目標を持ち、ひたむきに努力し
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