教育福島0143号(1989年(H01)11月)-027page
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くの魚が押しあいへしあい口を開けている。いかにも平和な観光地の光景である。しかし、その同じ堀の水の中には、あの大きな魚もまた潜んでいるのである。
(県立博物館学芸課学芸員)
不易なるもの
渡邊道夫
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七月初旬のことである。
「先生見てた。泳げたよ。十メートル泳げたんだよ」
と息を弾ませ、瞳を輝かせながら四年生のF子が報告に来た。私は、
「見てたよ。おめでとう。よかったね」と頭をなでてやると、F子は、
「今度泳げたら本物だね。ようし」
と自分に言い聞かせるように、再度十メートルに挑戦していった。
F子は、体も小さく、運動能力はとても低い。これまでも、水泳は一日も休まないのに進歩の跡はみられないという状態が続いていた。早く先へ進もうという気のあせりから、手と足がバラバラになり、息つぎのときに腰が沈んで立ってしまう。立つ度に首をうなだれ、友達の泳ぎをうらやましそうに眺めているのが常であった。そんな視線が気になり、F子の腹を手で支え、息つぎのときにバタ足を続けるようにさせた。更に、F子の両手に自分の手をさしのべながら、息つぎとバタ足、手のかきのタイミングを教えてみた。F子は、当初、戸惑いながらも必死でついてきた。徐々に慣れるに従い、補助をやめて、自分の力で泳がせるようにした。そして、二週間後、ついに十メートルを泳げるようになった。
以来、F子は自分の泳ぎに自信を持ち、夏休みには、二十五メートルを泳ぎ切るまでに泳力を伸ばした。
子どもは、どんな子であれ、常に、「分かりたい」「できるようになりたい」という欲求を持っている。その欲求をどうとらえ、育てていくのかが教師に課せられている大きな使命であると考える。F子のようにちょっとしたきっかけで大きく伸びる子。F子のようにとはいかないまでも、教師の一言がきっかけとなって学習や生活に意欲的になっていく子どもは多いと思われる。
教育は社会の進歩と共に、日々その考え方や指導法、指導技術が変化している。また、近年、情報化社会となり、コンピュータなどの教育機器の導入も新しい指導方法として脚光を浴びている。このような機器を扱えないと時代遅れともとられかねない現状でもある。
しかし、教育は、人と人とのかかわりの中で人を育てていくという営みである。そのためには、子ども一人一人にふれあいを求め、そこからその子の個性や能力を引き出し、育てていくことは欠かせない。このふれあいこそ、どんな時代になっても、教育の原点であり、不易なるものであると考える。わたしたちは、時代がいかに変わろうとも、常に何が易で何が不易なるものなのかをしっかり見据えて子どもに接していかなせればならないと考える。F子の輝く瞳は、子どもの気持ちになって一人一人の子どもに接していかなければならない教育の不易なるものの本筋を鋭く示唆してくれた。教職二十年目の今、不易なるものの見極めを確かにすることの大切さをかみしめている。
(相馬市立飯豊小学校教諭)
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戸惑いの中で
角田和弘
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教員となって十余年、周りが見えずに夢中だった若い頃と違い、何か自己不適応のような状況がつきまとうこの頃、「新人類」世代への対応にも戸惑いを覚えているところです。こんな時にふと脳裏に浮かぶのが、新米教員の頃の一コマ一コマです。
振り出しの学校は誰しも貴重な体験と思い出に満ちているものですが、私の場合は……
新任は千葉県からスタート。本県では採用がまだ「若干名」という頃、関東では人口急増で採用が多かったのです。その中学校は千葉市の大きな団地の中にあり、創立十年ほどなのに三十八クラスにもなって、新設分離してもなお、それぞれが増加の一方でした。プレハブ校舎生活の最大十四クラスの
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