教育福島0144号(1990年(H02)01月)-027page
に生きる生徒たちに話し、高齢者のことをも考えることのできる心を育てたいと思います。そして、陽光園で出会った、おじいちゃんおばあちゃんがいつまでも元気に過ごされますように祈っております。
(福島市立福島第一中学校教諭)
子ども社会に思う
深澤慶一
小学三年生の娘が、「私の家でも田圃をつくろう」と言いだした。昭和三十五年ごろの田植えの写真を見ていた時のことである。何を思ったのか、「釣りをしたい」と言ったこともある、突然の言葉に、「そうだな」と答えるしがなかった。何本もの川が流れ、田圃に囲まれている純農村にもかかわらず、田植えや釣りの経験は無いに等しいのである。
私自身を振り返えれば、田植えや釣りは生活の一部であった。春の苗代づくりから冬の堆肥づくりまで、ごくわずかの期間を除けば、年中何らかの農作業はあった。長期休業はもちろん、休日は休む暇もなく農作業の手伝いに明け暮れていたものである。
言うまでもなく、かつて農村においては七・八才程の子どもの労働力をも必要としていた。明治十一年、福島県を巡視した文部省の辻新次は、「男女七八才以上二至レハ背二児ヲ負ヒ馬ヲ索キ田畑二肥料ヲ運送スル」と実情を報告している(深谷昌志「孤立化する子どもたち」)。このような生活は昭和三十年代ごろまでは続いていた。子どもたちにとって、働くことは日課の一部で、ごく普通であった。私もまた、働くことを日課とする子どもであった。
現在、大人たちに昔の遊びをあげてもらえば、バッタ、鬼ごっこ、石けりなどであろう。それらは、皆、屋外で「群れ」て遊ぶものである。言い古されたことであるが、今『子どもたちの遊びは「群れ]から「孤独」へ、あるいは「活動型」から「静止型」へ、そして「自発」から「受身」へと変質してきた』(孤立する子どもたち)といえる。
労働から切り離され、遊びの変質が進むなかで、生きる力が衰退し、人間関係に適応できない子どもたちが増えているのではないかと気になっている。私の娘の言葉は、知らず知らずに生きる力を育てる機会を奪っていたことを示している。生きる力を学校教育だけで育てることは困難である。私たちのまわりには、さまざまな体験をさせる場が、今でも数多く存在している。現在求められるのは、その場を生かす努力であろう。子どもにとって、種々の生活体験は最良の教師である。
何年か前に自宅裏の竹やぶを百坪ほどの広場に変えた。幼稚園児から中学生まで、多い時で三十名もの子どもたちが遊ぶようになった。そこでは鬼ごっこ・陣とり・竹馬・ボール遊びなど、多種多様の遊びをみることができる。昔の遊びが行われているのである。私の思惑どおりであった。子どもたちは今も昔も変らないのである。私の子どもが成長したのちも、この広場を残しておきたいと思う。村という地域社会のなかで、子ども社会とかかわってみたいと考えている。とかく閉鎖的な学校社会だけにこもらず、地域社会に目を向け、子どもたちと接していきたい。(県立須賀川女子高等学校教諭)
働くことを日課としたがっての子どもたち
「温故知新」
峯島和彦
物質的に豊かになり、技術革新が進んで何もかも便利な社会が実現すると、自分の力で不便さを克服しようとか、よりよい社会を築こうとする活力が低下するように思われてならない。
最近では、登校時刻や始業時刻に遅れても眠かったからしょうがないとか、腹痛と言えばまかり通るとか、中には学校はサービス機関なのだから余計なことを言うなと開き直る子どもさえ現れているということである。物は使い捨ての時代になり、それを奨励するかのように目新しい製品が次から次へと