教育福島0144号(1990年(H02)01月)-029page
二名の児童の担任をしています。たった一人のH君を前に不安になっていた私は、十二倍の不安を抱きながら、学校生活を送っています。しかし、先生方の温かいご指導やご援助のもと、日々真の教師を目指して励んでおります。今後もH君と過ごした学校生活を心の糧として、一人一人の児童を大切に指導していきたいと思います。まだまだ未熟な私には、何をするにも不安が先にたちますが、子どもたちのために精一杯実践することで、不安を少しずつ自信に変えていきたいと考えています。
(川内村立川内第二小学校教諭)
働くことを基盤に
大場健哉
十月……耕うん機やコンバインの音が至るところから聞こえてくる。
農家の長男として生まれた私にとって、この季節は人々が一年の中で最も生き生きと活動するときのように思えてならない。振り返れば、私が小学生のころ、この時期になると遊ぶことも許されずに手伝わされたものである。
そのころは、現在のようにコンバインなどという便利な機械は無く、刈り取った稲を天日で乾かし、それを脱穀機まで運んでいかなければならなかった。土にまみれ、汗をびっしょりかきながら手伝いをしたものだ。
しかし、手伝いが終わると、自由に遊べなかったことを悔やむどころか、逆になんともいえないほどのさわやかな気分になったことを覚えている。
富山県のある小学校では、校内研究の柱の一つに「働くこと」を掲げ、素晴らしい実践をしていると聞く。
朝八時に登校した子どもたちが、身支度を整え、それぞれの持ち場へ行き、ある者はグランドを整備し、ある者はナイロン袋に石を拾う。このような活動を通して、「意志力」「創造力」「連帯意識」「計画性」などを培っているのである。
最近の子どもたちを見ていると、確かに知識は豊かであるが、「働くこと」には抵抗があるように思えてならない。花壇などの除草を行う場合でも、すぐに何人かの集団ができ、おしゃべりをしている姿が目につく。仕事をやりだしてもすぐに飽きてしまい、途中で投げ出し,てしまう姿もよく見かける。
なぜそうなるのか……それは、人間の生きる基盤が「働くこと」であるということをだれもが忘れてしまっているからではないのだろうか。もしかすると最近の子どもたちは(大人もそうかもしれないが)、生きる基盤が楽しむこと、というような大きな考え違いをしているのかもしれない。
教育、つまりエデュケーションとは、その語源から、子どもの持ついろいろな良い面を引き出し、伸ばしてやることである。このようなことは、私たち教師のだれもが知るところであり、日々実践していると思う。しかし、それは、主としてその子の能力、具体的に言えば、国語、算数……家庭、体育という教科に関することが中心であり、当然のことと考えられがちである。
ここで、前にも述べたように、「人間の生きる基盤が働くこと」と考えたときにどうであろうか。確かに清掃指導は行っているが、働く喜びを引き出すまでには至っていないように思われる。「働く」という中には、多くの学校の教育目標にかかわる知、徳、体のすべての要素が含まれているはずである。
子どもたちをよい方向に導くために教科研究も確かに大切であろう。しかし、私は、人間としての大きな土台となる「働く」意欲を高めることこそがすべてに通じる道ではないかと考える。(喜多方市立第一小学校教諭)
学び合う喜び
長谷川幸三
いまに見ていろ ぼくだって
見上げるほどの大木に
なってみせずに おくものか
子どもたちが、今日もまた、この言葉が刻まれた碑の前を、霜柱を踏みしめ、元気にあいさつを交わしながら登校してきた。ここ、東山小学校は、須賀川市の東端に位置し、豊かな自然に恵まれた阿武隈山地にある。全校児童数三十一名の小規模校である。
私が三つめの勤務校である本校に赴