教育福島0146号(1990年(H02)04月)-026page
の怠け心が抜け切っていない。ほっとできる時間ばかりを追いすぎて、いつしか毎日がほっとしてしまうのである。生徒の顔を思い出しては、「あんちくしょうめ、もっと勉強せんかい」「ようし、よぐやったべ」と、ついつい余分な事を考えている。そして、明日の授業の段取りを忘れ、朝になってあたふたしているのである。
前書きが長くなったが、私は、暇つぶしの時間が大好きである。緊張した場面もそうはないくせに暇つぶしとはおかしな話だが、私にとっては明日ヘの活力の場であり、段取りを考える場でもあるのである。大学生の頃の恩師に「おまえは弓のつるが緩んでばかりいる。時には必要だがもう少しピーンと張れ」と言われたのが忘れない。しかし、どっぷりとつかったその時こそ、エネルギーの充填なのだから一向に気にしない。
いつの頃からか忘れたが、自然の良さというか自然の偉大さすばらしさがなんとなくわかるようになった。他人に言ってわかるものでもないが、また他人から聞いて理解できるものでもないが、一人自然の中に没頭しているその時が己れの時間として感得できる唯我独尊的発想を持てるようになった。自己満足ととらえればそれまでだが、生活の中の効用として、そして、明日への糧の一つとして没入する自分を見るのである。現代社会を唯物の世界と発言した思想家がいたが、なればこそ心の社会を欲したいものである。慣れ過ぎた人間社会を、マシーン的発想を避けるためにも、である。
忙中閑ありとはよく言われる言葉だが、人間の心を忘れないために、私は明日への糧を探っていきたいと考えている。つまりは怠け心がむずむずしているのである。入口は狭くとも出口で大きく感じ取りたいと常々考えるのである。大したことじゃない、良く言えば自分を見つめ、さらに自分を生かしたいと考える欲を持っているだけなのかも知れない。また明日も、ほっとする時間をみつけるために考えを巡らしているのである。
(梁川町立梁川中学校教諭)
花いろいろに
玄永牧子
例年になく早い奉の陽射しの中に、シンビジュームの花が咲いている。光を背にうけると、花弁が透明に輝き、色に艶が出てくる。まるで、ルビーやトパーズを光にかざして見ているように、華やかで豊かな空間が広がる。
蘭といわれる仲間は、その数が、ざっと二万五千種あると、本に書いてあった。豪華なカトレアや胡蝶蘭は、西洋蘭の代表である。春先の野山に、一輪ずつの花をつける春蘭も、初夏のころ芝生の中などに、ねじのようによじれて細長く伸びた花茎に、小さな桃色の花をいっぱいにつけるもじずり(ねじ花)も、鴇(とき)を連想させる湿原の鴇(とき)草もみな蘭の仲間に入るとか。よく見ると、カトレアからねじ花の小さな花の一つに至るまで、その花は共通の形をもっていて、外側の三枚のがく片の上に、それによく似た三枚の花弁がつき、そのうちの一枚が、とくに唇弁といわれるように、たるで人間の唇か舌をべろりと垂れ下げたような、独特の形をしている。
同じ仲間でありながら、東洋蘭の楚々とした高貴な味わいは、西洋蘭の、ときには辺りを圧倒するほどの、見事な色と形の饗宴とは対照的だ。それぞれに、人を魅きつける美しさがある。それに、どんなに肥料をやり手をかけても、ねじ花はけしてカトレアにはならないし、鴇草も胡喋蘭には変らない。持って生まれた遺伝子と、置かれた環境のもとで、鴇草は鴇草の花を咲かせ、ねじ花はその花をつける。
学校の生徒に、同じことを思う。どんなにたくさんの人の中にあっても、リーダーシップを発揮し、ひときわ目立って貴重な存在になる子もいれば、いつもひそやかに人の蔭にいながら、目が輝き美しい笑みを浮かべて、クラスの大事な存在になる子もいる。本が好きな子、マンガを描く子、いつも賑やかにしゃべっている子、スポーツが好きな子、さりげなく教室に花を飾る子、もくもくと掃除に励む子、千二百人の個性が集まる学校は、さながら、色とりどりの花が咲く公園のように見えてくる。
手をかけ心をかけて育てた時のシンビジュームは、花はもちろん葉も、色といい形といい、それぞれの品種の特徴を備えながら、どれも見応えのあるものに育つ。寒い冬に根を痛めず、成長期の夏に十分な水と肥料を与え、秋に肥料を断って少し寒さにあわせ、開花時に必要な温度と光があれば、どの鉢も見事な花をつける。ところが、やっと伸びた花芽をなめくじになめられたり、花をカイガラ虫にやられたり