教育福島0146号(1990年(H02)04月)-028page

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養護教諭として

宗形祝子

 

生徒の様子も学校保健の中心課題も様々に変わってきたことを実感しています。

 

養護教諭の仕事の内容もずいぶん変わったように思います。昭和四十一年に養護教諭になり、二十四年の歳月が過ぎました。振り返ってみると、社会情勢のめまぐるしい変化に伴って生徒の様子も学校保健の中心課題も様々に変わってきたことを実感しています。

最初勤務した学校は、純農村にある生徒数二百名程の小規模中学校で、七年間過ごしました。主な仕事内容は、トラコーマや寄生虫の撲減でしたが、栄養状態が悪いためみそ汁給食を実施し、朝早くから用務員のおばさんと野菜を切り、調理に情熱も燃やしました。その頃は、学校給食の実現を願った時代でした。また、衛生状態も悪く、顔を洗わなかったり歯をみがかないで登校する生徒の指導や、衣服・身体の不衛生な習慣を改善する指導、伝染病予防の指導、ハエ・ノミ・シラミ・ネズミなどの病害虫の駆除などが中心課題でした。しかし、生徒達は純朴で明るく素直で、教師と生徒との人間関係は信頼に満ちて、とても充実した毎日でした。

次に勤務した学校は、郡山市内の農村地帯にある小規模小学校で、三年間過ごしました。この頃は、世の中の景気がよくなり、教員の給与も高くなったことを記憶しております。食生活も豊かになり食卓にのぼる食品数も増え、インスタント食品や清涼飯料水なども手軽に求められるようになりました。こんな時、問題になってきたのがむし歯や骨折の増加です。無医地区でのむし歯治療対策に悩みました。

次に勤務したのは、周辺が建築ブームの最中で新興住宅街が広がって、生徒数が年々急増し、校舎の新築、増築を余儀無くされた大規模中学校でした。この頃から視力悪化が急に目立ち、その対策として全校あげての目の健康体操を実施しました。登校拒否の生徒も少数ではあるが目立ちはじめたときでした。保健室では心身症と思われる生徒達が増え、その対応に追われた毎日でした。そこで、養護教諭もカウンセリングの勉強の必要性が強く言われるようになりました。

現任校に赴任して、ますます生徒指導とのかかわりが深くなり、心の問題が大きくクローズアップされ、保健室の役割が問われるようになりました。

今の保健室は、たまり場、かけこみ寺、オアシスなどと様々に表現されています。生徒への対応の仕方についても、受容的に、甘やかさないでとか、病気であるかないかの判断だけで、それ以上はかかわらないようになど様々な意見をいただいて戸惑うこともありますが、養護教諭も一教師、それなりの教育理念を持って対応することが大切だと思います。自分の歴史を振り返ってみて感じることは、どのように社会情勢が変わろうとも養護教論の職務の本質は変わらないということです。これからも、生徒の健康を守り、豊かな人格を形成するために援助指導していくつもりです。

(郡山市立郡山第五中学校養護教諭)

 

国際化に思う

武田徹

 

どのような意義があるだろう。このような観点から一つの体験を述べてみたい。

 

最近、国際化とか国際交流という言葉がマスコミに登場しない日がない程で、頻繁に耳にするようになった。それにつれて国際交流と銘打った諸行事が、県内各地で様々な形で持たれている。福島県で昨年パスポートを申請した人の数は四万五千六百八十五人ということで、海外研修や旅行も全く一般化してしまった感じがある。一方現在県内には外国人が四千八十三人居住しており、福島市だけでも七百三十四人を数えるという。このように見てくると、我々は好き嫌いに拘わらずいつ外国人と接してもおかしくない状況下で生活しているのである。しかし、国際化によって日本人、外国人双方に得るものがなければ、果してどのような意義があるだろう。このような観点から一つの体験を述べてみたい。

昨年八月三日から十八日間、オーストラリア・ホームスティ研修旅行(高校生十五人、付き添い教師四人)を企画実行した。これは二年間英語指導助手として福島女子高校に席を置き活躍された、オーストラリア人リー・ディル先生と、主として福島市内に在住している外国人と市民との国際交流を進めているボランティア組織「福島国際交流の会」とのタイアップによって実現したものである。ホームスティの受け入れ先はリー先生の出身地であるマジー町。人口が約七千人でシドニーか

 

 

 


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