教育福島0146号(1990年(H02)04月)-029page

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ら車で内陸部に約五時間入った所にある。受け入れ母体はロータリークラブとマジー高校であった。十九名の日本人が大挙して押しかけてきたのは、町初まって以来の出来事ということで大変な歓迎ぶりであった。至る所に日本製品が氾濫しているのを見ている限りではまるで日本にいるような錯覚を覚えるほどであったが、彼らが異口同音に言うのは、優秀な製品を送り出す人間(日本人)がそこに見えない無気味さであるようだ(日本人はこの点は肝に銘じるべきだろう)。しかし彼らは生身の日本人に接し、日本の高校生が知的好奇心が旺盛で、非常に礼儀正しく明るい人達であるとの印象を持ってくれたのは嬉しい限りであった。

一方高校生が学んだものは数限りない。ホームスティ先では一人前の大人扱いに感激し、子供を頭ごなしではなく諭す叱り方にすんなり納得し、マジー高校の体験入学ではのびのびした授業と、先生と生徒の自然な交流に目を見張る。何よりも生徒が自分の意見を持ち堂々と発表する姿に面食らう。キャンベラでは議会開催のさなかに会ってくれた国防大臣シモンズ氏に感激し、カウラでは、きれいに手入れされた日本人捕虜の眠る墓地に彼の地の人々の人間味と温かさを感じ、戦争記念館では千人針などの日本の生々しい過去の品々に外国の地で触れ、まじまじと見入る。

日豪双方の出会いと発見、違いの認識、そして感動の共有は言葉や膚の色の違いを越えて、人間としての共感を持って終わったオーストラリアホームスティ研修・・・このような異文化間の相互交流を真の国際交流と名付けたいがいかがであろうか。

(県立福島北高等学校教諭)

 

私とパソコン

石井守

 

が大変で、コンピュータを使えたらと考えたのがそもそものきっかけとなった。

 

私がパソコンと出会ったのは、五十歳の時、まさに『五十の手習い』で、社会科の教員が何でパソコンかと、今でもよく言われる。実は、昭和五十年代前半、町の広報誌に「歴史散歩」と題して二年ほど郷土史の随想を連載していたことがある。その資料検索が大変で、コンピュータを使えたらと考えたのがそもそものきっかけとなった。

まもなく、当時マイコンといわれていたものが安価で販売されるという話を耳にした。「機能の割には高価だな」などと思いながら店先で見ていると、店長さんに事務室へ案内され、何時間も使わせてもらった。きっと、もの欲しそうな顔に見えたのであろう。

昭和五十六年の夏ごろ、二つの会社から漢字機能が付き、価格も手ごろなものが発売になるというので、急いで注文し、やっと手にしたのは、冬休みであった。データレコーダまでは買えないので、初めはステレオデッキを使った。今考えると少々無謀だったが、目的は検索であった。

パソコンを持ったとき、教師ならまず考えるのが成績処理。私もそうであった。しかし、ソフトは自作するしかなく、ベーシックを勉強しながら少しずつプログラムを作成した。当時、会津若松市内には、参考書などが少なく独学に近い状態ながら、パソコンにのめりこんでいった。初めの資料検索のねらいはどこへやら、成績処理が主目的になってしまっていた。その後、ディスクドライブを買い、機械も性能のよいものにし、プログラムもよくなった。

昭和五十八年には、当時勤務していた会津若松市内の中学校に、マイコンクラブをつくった。しかし、機械はなく、自分のものと、好きな生徒が持っていたもので勉強した。

パソコンを通じて福島市のA氏と知り合ったのもこのころである。パソコンの教育への利用を真剣に考える仲間がたくさんいることを知り、昭和六十年、教育センターの中学校第一回ベーシック講座参加の先生方に呼びかけ、教育ソフト研究会を組識した。今では、県内外に百二十名ほどのメンバーをかかえるようになった。随時、集まりを持ったり、パソコン通信で情報交換などをしたりしている。福島市内の小学校のS先生、相馬市内の中学校のK先生、教育センターのY先生などすばらしいメンバーがいて、ソフトの開発や教育への利用の試みなどをしている。黒板やOHP、そろばん、絵筆などの代わりにパソコンを使ってみようというのである。会員が自由に利用できるソフトも多くなっている。

今、私は、パソコンクラブの生徒たちと雑誌、参考書などで学んだり遊んだりしている。また、愛用する2台の機械は、私の校務処理の手足になっているとともに、仲間との通信をとおして、情報やプログラムの交換に大いに役立っている。

(会津若松市立一箕中学校教諭)

 

 

 


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