教育福島0147号(1990年(H02)06月)-026page
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る時は友人として、又ある時は親、先輩そして現場監督者として共に歩みながら、指導し助言する姿勢が基本であると思います。もちろんそこには、理論的で納得させる指導と助言が要求され、子どもの理想と現実の橋渡しをする役目を持つ必要があります。
商業教育に携わっている者として、有為な産業人の育成のために、各種資格取得などに努力しているものの、思うように成果が上がらない状態です。それは、画一的な指導の欠陥なのか、学習内容、教材教具の工夫不足や指導技術の研究はどうだろうかと、専門性を要求されている昨今にも拘らず、個人差による多様な進路に適応させるにはどうすれば良いのか、どう目標をもたせやる気を出させるか、模索している毎日です。
幸い、本校では平成二年度より類型制が設けられ、興味、関心、進路等、生徒の要求に応えることができるものと期待しております。
しかし、如何に立派な組織や教育課程であっても、それを運営する私どもが、子どもの幸せを願い、やる気を起こさせ、一致協力して真剣に取り組んで計画、実践、評価の筋道を大切にする姿勢がなければ、机上の空論に過ぎません。
最後になりましたが、思いやりのある創造性豊かな子どもづくりを目指し、研鑽を重ねながら、子どもたちに少しでも尊敬され信頼される教師であるよう、努力して行きたいと思います。同時に、老骨に鞭打ちながら、生き生きとした楽しい学校づくりに努力して行くつもりです。
楽しい学校づくりは、私ども教師でなければできない大切なことですから。
(県立喜多方商業高等学校教諭)
初任の地を想う
櫻井勇二
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今年もまた、春が巡って来ました。南会津の伊南の里の、山すそに広がるカラマツ林の緑はまだでしょうか。
統合によって、今は廃校になってしまった大川小学校に、限りない夢を抱いて赴任したのは、二十四年前の春でした。
春は、残雪の白の中に、山吹色の福寿草。夏は、せせらぎの中でのかじか捕り。秋は、くりの実、とちの実、山ぶどう。冬は、吹雪の中の登下校。良一、夏子、守、善市、純一、恵子………。あの美しくも厳しい自然と、私の心を育ててくれた子どもたちの顔が、あの当時のまま今も心の中に生きています。
最近、大川の地を思い出すことが多くなりました。はじめ、その理由がつかめなかったのですが、ふと思い当たることがありました。思い出すのは決まって、教育に対する燃えるような情熱を忘れかけている時だったのです。そんな時、あの時の子どもたちの「あの頃の先生と今の先生は違うよ」と言っている声が聞こえるようで、夢から覚めたような気になるのです。
今までの二十三年間に及ぶ経験で、確かに指導技術は向上しました。しかし、長い経験故に、ともすると教育の本質である「心」を見失い勝ちになるのも確かです。その「心」を思い出させてくれるのは、いつも大川の子どもたちであり、地域の人々なのです。
私が連休を利用して、いわきに帰省する前日、通学路の脇の小川から、私への土産の岩魚を捕ろうとして遅刻して来た子どもたち。夏の暑い盛り、妊娠していた妻を、職員住宅のトタンの屋根の下ではつらかろうと「おれんとこは涼しいから休まんしょ」と言って、曲がり屋に連れて行き、昼寝をさせてくれた何人もの地域の人々。そんな素晴らしい人々に囲まれて、私の教育に対する「心」は育てられてきました。
あの頃は、心も体もいつも子どもと一緒でした。「子どものために、自分は何ができるのか」いつも真剣でした。「どうすればまともな授業ができるのか」夜を徹して考え、自信を持って臨んだ授業が、惨たんたる結果となり、悔し涙を流した日もありました。そんな時、いつも心のなぐさめになったのが、子どもたちの明るい笑顔でした。
大川小学校を去ってから、四校に勤務しましたが、どの学校でも素晴らしい子どもたちと地域の人々に支えられ、今までやってきました。
私を育ててくれた多くの人々のご恩に報いるためにも、初心を忘れず励んでいこうと思っています。
あの時の長男が二十歳になった今、「そろそろ、自分の過去の思い出や、経験を若い先生たちに話してもいい年齢になったのかな」と思うと同時に、「今年初めて先生になられた方々も、最初の赴任地で精いっぱいがんばり、たくさんの思い出をつくっていただきたい」と祈る、今日この頃です。
(いわき市立小名浜第三小学校教諭)
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