教育福島0147号(1990年(H02)06月)-027page
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
ピアノとの出会い
田中雅子
![]()
私が物心ついた時、私の周りにあった楽器らしきもの、それは卓上ピアノであった。今思いおこせば、遠い昔のことである。まだ、世の中は物質的に豊かではなく、サラリーマンの父ひとりの収入で六人家族。決して暮らしは楽ではなかったと思う。遊ぶおもちゃも限られており、その中の一つに卓上ピアノがあった。二歳年上の姉は、いつもこの卓上ピアノをひとりじめし、私と妹はそのそばで姉の弾くのをじっとみていたように思う。
小学校に入学した頃、姉と一緒にピアノのレッスンに通わせてもらった。レッスンといっても今のような本格的なものではなく、ただピアノの先生の所へ行けば、本物のピアノが弾けるという、ほんのささやかな喜びにつられて通っていたようだ。レッスンに通い始めると、卓上ピアノでは練習は無理。当然もっとしっかりとしたものが欲しくなる。両親は、みかねて小型ではあるが、オルガンを買ってくれた。卓上ピアノからオルガンは、まるで天と地。嬉しくて姉と取りあって練習した。「音取り遊び」などと私達姉妹の中で勝手に作り出した遊びもある。好き勝手に鍵盤を弾き、目をつぶって何の音かを当てるのだ。それが、おもしろくて楽しくて、三人で交互に繰り返し遊んだ。
やがて、レッスンの内容も多少進み、小型オルガンでは、鍵盤の数が間に合わなくなっていった。練習曲を弾き始め、あるところまでいくと、一オクターブ下げて練習するしかない。その頃の私には、苦肉の策である。しかし、その苦労も足を引っぱることになる。ピアノの先生にみていただく頃には、一オクターブ下げて弾く癖がついてしまって、正常に弾けないのである。
![]()
卓上ピアノには懐かしい思い出が
私が中学一年生の時である。両親は本当に待望の本物のピアノを買ってくれた。八十八鍵のピアノが我家に届いた時は、夢ではないか、本当に私達のピアノなのか、と喜びと感激でいっぱいだった。その頃からか、次第に私の心は音楽にひかれ、将来音楽の道に進むきっかけとなった。それからというものは、ピアノは私の心の支えとなり、大事な宝物となった。今の世の中にすれば、ピアノの一台や二台は当たり前。豪華な家の片すみに飾り物のように置かれているピアノさえある。確かに現代は、物が豊かになった。欲しいものは何でも手に入る。しかし、私の幼い頃のように、ほんのちっぽけなつまらない事にも、まるで世の中がひっくり返ったように喜んだり感激したりする心が、年々失われているような気がする。
今も実家の部屋の片すみに、鍵盤のすり減ったピアノが置かれている。今では、私はあまり弾くこともなくなったが、娘が時々弾いているようである。思い出のいっぱい詰まったピアノの音色が、娘の心にはどんな響きで伝わっていくのだろうか。
(白河市立五箇中学校教諭)
素晴しき先生方に捧ぐ
渡辺康弘
![]()
教職に携わって六年目になります。この間、数多くの先生方と出会い、専門書などからは決して学ぶことのできない数多くのことを教えていただきました。現在、生徒から曲がりなりにも「先生」と呼ばれ、教壇に立っている私にとって、これらの先生方との出会いこそが最も大きな財産であります。そこで、今回、御礼の意味を込めまして、私が出会った「素晴しき先生方」を、この誌上をお借りして、紹介させていただきたいと思います。
一、S・K先生
新採用で赴任した前任校で、初めて学級を担任した時の学年主任としてお世話になりました。春の遠足で男子生徒とともに三角ベースに参加していたS・K先生。打順がまわり、打った打球がボテボテの内野ゴロ。顔をまっ赤にし、全力で一塁に駆け込みましたが、生徒の判定は無情にもアウト。その後判定に不満の先生は、五百メートルに
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |