教育福島0147号(1990年(H02)06月)-034page

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ことができるのです。教師の一方的な指示や直接禁止ではなく、児童生徒が自らの経験と自分のもっている力をフルに活用しての選択と実行が、自分自身をコントロールする力となり、社会の中での自己実現へと結びついていくのです。

従って、教師は、生徒指導を実践していく上で、次のような観点で臨むことが大切となります。

1)心身に障害があるなしにかかわらず、子どもがある行動を起こしている時、それはどんな意味をもった自己表現なのかを子どもの内面に迫った見方でとらえること。

2)子どもと教師が、一人の人間として対等に向き合い、喜びや悲しみ、恐怖、驚きなどを感じることのできる信頼関係をつくること。

3)子どもを取り巻く環境構成をいつも工夫検討していること。

こうした観点に立って、個々の児童生徒の生徒指導上のねらいを明確にしていくことが大切なのです。

 

二 教育課程と生徒指導

生徒指導は、各教科の学習場面、道徳、特別活動、養護・訓練の指導場面それ以外の学校の教育活動全体の中で機能しています。従って、学校の教育課程を編成していく場合、その根底にあるものと考えることができます。

ある晴れた秋の日、A養護学校の遠足がありました。秋の自然に触れ、楽しい一日を過ごすこと、集団行動の意義がわかり安全に留意し行動できることを目的に実施されました。バスに揺られ現地に到着。普段の教室とは違い、どこを見ても自然が目にとび込んできます。整列して山道を歩き始めて少し経ってから、一人の男の子(A君)が先へ先へと行ってしまい教師は、集団行動を大切と考え引き戻しますが、また先へ行ってしまう。ことばの説明を加え、「みんなと一緒に行こうね」というが、また先へ行く、教師は、自然の中を子どもがどんな気持ちで歩いているのかを考えることも忘れて、集団行動を乱すとはけしからんとばかり、大声で怒鳴ってしまいました。その子は、大粒の涙を流し悲しい顔になっていました。

遠足の目的には確かに集団行動の意義を・・・というものがありました。しかし、それは形式ばかりを整えることではなかったはずです。力づくで集団行動をとらせることではなかったはずです。子どもの心を無視したものでは決してなかったはずなのです。

約束やルールに関する教師の指示に従うことができるようになるには、教師の働きかけを受け入れることが自分の生活をよりよくするのに不可欠であることに気付かせる必要があります。それを土台として、児童生徒は、教師の制止でさえも、自分の拡張につながることを知るようになるのです。

社会性を養う名目で、何でも一緒に行動することをあまりにも強く子どもたちに迫ってしまうと、逆に子どもたちの豊かな感性の芽を摘んでしまい、教師への不信感を抱かせることになり、社会性を養うどころか、かえって無気力な子どもにしてしまうことになりかねません。

学校は、児童生徒の実態に応じた教育課程の編成と、その実践の場です。その際、児童生徒の内面を重視した生徒指導の精神を大切にしたいものです。

 

三 生徒指導の内容

(一)児童生徒理解

一般に、人は社会の中で周りの人々と助け合い、又お互いの個性を認め合う中で豊かな心をもち、より充実した生活を営んでいます。

ところが、例えば、ある子ども(B子)が、草の上にすわり、草をむしゃむしゃと食べ始めると、たいていの教師は、それがどういう意味の行動なのか推し測ることができない、B子の次の行動が予想できないという不安が生じると、何かをしなければならないという気持ちが先走り、目に写る不自然(年齢相応の子どもを想定し、それと比較して)さを直そうと直接行動をとることが多くあります。確かに生命に危険が及ぶような場合は直ちにその行動を阻止することになりますが・・・。

B子の場合、よく観察してみると、石や土は口に入れないのです。草や枝、(ごく細いもの)でそれも口に入るものを選んで入れ、くちゃくちゃと、その感触を対比しているように見えてきます。幼い子どもが、何でも口に持っていき、唇でどんなものかを確かめていることを考えると、B子も草や枝を口の中でころがし、あるいはかんで、草のやわらかさ、枝の硬さ、折れ方などを、その歯ごたえで確かめているようです。そんな時、子どもの示している行動を表面に表われていることにのみとらわれて、それをすぐ阻止すると、B子の実の姿、物の性状をB子自身のやり方で理解しようとしている姿を見失うことになり、伸びようとする芽を摘みとる結果となってしまいます。

今、教師には、目の前の子どもの行動がその子なりの方法で調べたり比べたりしている積極的な学習活動として、その心の内面をわかろうとする努力が求められています。

「この子は〜ができない」「また〜をやり出した」「無気力で、与えられたことも長続きしない」等の見方をする教師がいますが、これは、教師の都合を優先し、子どもの実の姿をとらえているとはいえません。

また、「C君は、給食の準備で白衣を着るとき、自分からその準備をしようとしない。体操着に着替えるのにも、教師がいくら教えても自分からやろうとしない」と嘆く教師がいます。ところがC君の母親に聞いてみると、風呂場からお湯をかきまぜる音がすると、すばやく自分から衣服を脱ぎ風呂ヘ直

 

 

 


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