教育福島0148号(1990年(H02)07月)-029page

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奥の細道ブームの余韻の中で

今野孝志

 

芭蕉ブームに沸き、様々なイヴェントが催され、記念館の建築も相次ぎました。

 

昨年は、松尾芭蕉の『奥の細道』紀行の旅から三百年に当たるため、東北各地は芭蕉ブームに沸き、様々なイヴェントが催され、記念館の建築も相次ぎました。

私もブームに乗せられたというわけではなかったのですが、昨年は、奥の細道ゆかりの土地のいくつかを訪れる機会がありました。すでで観光地化していた場所では特に変わったという印象はありませんでしたが、これまであまり手の加えられていなかった史跡は、ブームの中で大きく変貌しようとしていました。その典型的な例として、栃木県の黒羽町があげられるのではないかと思います。

黒羽町は白河市に近く、私はこれまでも何度か尋ねたことがあります。黒羽城址には、芭蕉が滞在中世話になった家老浄坊寺図書高勝の屋敷などが残っていますが、今まではあまり手が加えられず閑寂な山城でした。しかし、昨年の五月に、校内の有志と久しぶりに行ってみたところ、"芭蕉の館"という記念館が建築中であり、句碑を配した散策路も造成中でした。まるで奥の細道の観光化を絵に描いたように開発が進められていました。芭蕉は黒羽に二週間ほど滞在したので、発句も多く残されているのですが、「行く春や……」という江戸出発の句までが碑に刻まれているのを見ると苦笑を禁じ得ませんでした。芭蕉がこの現代によみがえったとしたち、自分の名を冠して進められているこれらの観光開発をどのように思うでしょう。

この黒羽の他に昨年は七月に平泉、八月に松島、十月に山寺を訪ねました。振り返ってみるといずれも史跡、名勝に車で直行するだけの旅であったわけです。自分の足で実際に歩いてみることも大切なのではないかと反省するとともに、数年前のささやかな旅が思い出されます。それは、文化祭のクラス展示で『奥の細道』をとりあげることになり、取材のため数人の生徒たちと一緒に奥の細道を実際に歩いた思い出です。栃木県境の「境の明神」から「白河の関跡」まで六キロ程の道のりでしたが、地図だけを頼りに車の通れないような古道を歩いたことは、私にとって貴重な体験でした。私は国語を担当しているので、『奥の細道』の授業は何度かしておりますが、生徒には、「この頃の旅は大変だったんだよ」と言っていながら、自分の理解が言葉のうえでのものでしかなかったことをこの時痛感しました。このような旅をまたしてみたいと思いながらも、それ以後はなかなか機会がありませんでした。また機会があったとしても、余裕がなかったように思います。

今年になって「芭蕉」「奥の細道」という文字は身の回りにあまり見られなくなり、ブームは鎮静化したようです。ブームが何をもたらしたか私にはわかりませんが、私自身の反省も含めて少しばかり感想を述べてみました。折しも、地元の白河市では「白河の関跡」を公園化しようと整備が進められています。どのようなものになるのでしょうか。そして私はといえば、次は象潟だ、いや市振だなどと言いながら、懲りずに道路地図を眺めている次第です。

(県立白河高等学校教諭)

 

高原の町に赴任して

植田辰年

 

町と滝根町にまたがる「仙台平」と呼ばれる海抜八百七十メートルの山に、家族

 

阿武隈高原中部県立自然公園の中に位置する海抜四百五十メートルの、高原の町常葉は、今"カブトムシのふるさと"をキャッチフレーズに、町づくりを進めている。昨年は、カブト虫の生態が観察できる自然観察園(カブトムシドーム)をオープンし、カブトムシ自然王国の独立を宣言した。さらに、平成四年度までには「こどもの国ムシムシランド」を建設する予定とのこと。子どもの頃、一度は夢中になり、良き遊び相手として、誰しも思い出にあるカブトムシ。そのカブトムシを中心に町おこしを進め、全国の子供たちに、夢をあたえている高原の町に赴任して、三か月がたった。家族共々の引越しとあって、何かと大変であったが、環境にも慣れ、生活にも大分落ち着きが出てきた五月の中旬、気分転換に、阿武隈高原が一望できるという、常葉町と滝根町にまたがる「仙台平」と呼ばれる海抜八百七十メートルの山に、家族

 

 

 


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