教育福島0148号(1990年(H02)07月)-028page

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と泣いているだけで困っています」

と、母親から電話……。

私は、逃げても問題は解決しない。いっしょに解決しようと諭す。電話をきってから、私はどの子の後ろにも、真剣に心配する家族がいて、ひとりだけの問題ではないと改めて気付き、責任の大きさを痛感した。

翌日、女子を集め事情を聞き、自分の体験と家の人が心配していることを話して、仲直りを促した。その後、表面的には何事も起こらないが、しっくりいかない。時が解決するだろうと見守った。

二週間後

「先生、私はいじめられてもしかたがないの。私も同じことをしてきたから。今、悪かったと思う。でも、いじめられた方が気が楽だよ。びくびくしなくてもいいから」

私は、ひとまわり大きく成長したN子に感心した。悩み、苦しみながら友達から学んだのだ。

今年の四月、家庭訪問で、同じ家からの問題は出なかった。それなりに解決したのだ。でも、今日もまたいろいろな心配ごとを持ってくる。真剣に考えてくれる家族と、一つ一つ解決していきたいと思う。

この子ども達が、私が小さい時に夢みた婦人警官や弁護士、そして医者にと活躍する姿を想像すると、毎日が楽しくなってくる。

(矢祭町立東舘小学校教諭)

 

S君との再会

穂積武夫

 

フN君が私の所に来て、来年結婚する予定なので、式に出席してくださいと言う。

 

昨年の夏に昭和五十四年度卒業の教え子から同級会の通知が届いた。中学校を卒業してから十年目の集まりである。どの顔も十年前と同じように思えた。その中の一人のN君が私の所に来て、来年結婚する予定なので、式に出席してくださいと言う。

しばらくして、N君から結婚式の招待状が届いた。式の当日、会場には中学時の同級生が五名程来ていた。教え子と談笑していると突然、

「先生、僕がわかりますか」

と尋ねられた。私は、顔には見覚えがあったが名前が浮かんでこなかった。急いで手元にあった座席表を見て

「S君だね」

と答えた。彼は、にこっこりして

「そうです。中学の時は大変お世話になりました。お陰様で今は元気に仕事に励んでいます」

との返事であった。

十年前、私は教職について三年目であった。そのころは部活動の方に関心が高く、S君に「お世話になりました」と言われた時、赤面する思いがした。S君について覚えているのは、彼が私の学級の中ではかなり成績の低い生徒で、三者面談でも志望校が決まらず、再々家庭訪問をしてやっと志望校を決定し、無事入学できたということであった。

S君は、高校を卒業して先輩のつてで大宮市の寿司屋に就職し、今では、店長の片腕として五〜六人の弟子を指導しているとのことであった。

私はこの事を聞いて何か心が温まるような気持ちになった。こんなにも立派になるとは思ってもみなかったからである。なぜか無性にこの事を誰かに話さずにはおれない気持ちになって、式が終わり、家に帰って妻にこの事を話した。

中学校の時は学習意欲もなく、元気のないように見えていた彼がどうして…。同じ教え子でも一方は地元に戻り家でブラブラしている者もいる。その差は何なのだろうか。

多分、その差とは、生きる姿勢ではないだろうか。S君は確かに学習面に関しては意欲がなかったが、部活動や清掃などは、まじめにコツコツと行っていた。しかし、地元でブラブラしている教え子は、どちらかというと何をやっても中途半端で投げやりな姿勢であったように思われる。

この差が十年後、二十年後の人間の生き方を分けるものになってしまうのであろう。立派に成長してくれたS君を見て、つくづくと考えさせられてしまった。

この事は、自分自身にも当てはまることである。これからの教職の道はまだ長い。どんな壁につきあたらないとも限らないが、S君同様、上司や同僚から信頼され、生徒からも尊敬されるような教師をめざし、一歩一歩着実に前進するよう心がけていきたいと思う。

(会津若松市立第二中学校教諭)

 

 

 


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