教育福島0148号(1990年(H02)07月)-049page

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博物館ノート

改革の推進者にして一流の文化人

松平定信と詠帰亭

松平定信は宝暦八年(一七五八)御三卿田安家初代宗武の三男として生まれ、安永三年(一七七四)白河藩主松平定邦の養子となり、定邦致仕により天明三年(一七八三)藩主となった。しかしこの年は前年に続く飢饉となり、会津藩の記録書『家世実紀』にも「此年、大不作……」と記され実に二十八万石余の減収となった。会津藩ばかりでなく他の藩でも多数の餓死者を出した年であった。しかし白河藩では定信の指示で米を買い上げて領民に与え、一人の餓死者も出さなかった。その後殖産を奨励し、みずからも質素倹約を実践し、藩財政の立直しを図るなど優れた指導力を持った政治家であった。この経験が江戸幕府老中首座として取組んだ寛政の改革に生かされたことは確かである。

また定信は治世に力を尽したばかりでなく、文化にも関心を持ち、多数の著書を残している。その一つに藩の分領があった信夫郡上飯坂村(現福島市飯坂町)を疝病の湯治を目的に訪れた時の紀行文『山の井』がある。

上飯坂村では堀切家に宿泊をした。堀切家はその由緒書によれば寛保二年(一七四二)藩より名字帯刀の許しと大庄屋格の地位を与えられ、さらに天明の飢饉では米百俵を困窮した百姓に施したことにより郷士を仰せ付けられ五十石を与えられるなど、定信とは縁の深い家柄である。紀行文の中では温泉や庭について「温泉あしからず。されども庭狭小にして居所もひろからず。此里雅地にあらず。のぞみに応じがたし」と評しているが、いくつかの名庭を作庭し、庶民も楽しむことのできる日本最古の公園、南湖公園を作ることになる定信にしてみれば物足りなさを感じたかもしれない。しかしその庭に建つ小亭で茶会を催し、小亭に「詠帰」と名付けてみずから『詠帰亭』と揮毫した篇額を主人に与えるなど茶会を楽しんだ。

またこの飯坂滞在中に、信夫庄司であった佐藤一族の菩提寺の医王寺を訪ね、平家物語や義経記にもその忠節が語り継がれている佐藤三郎継信・四郎忠信兄弟の墓に参り、

君に仕ふ心はおなじ心なればいとゞ涙をとゞめかねぬる

と兄弟の忠節心と己の将軍に仕える心とを吟じている。医王寺には六十基ほどの碑があり、その中で正和二年(一三一三)銘の逆修供養塔が、兄弟のものと伝えられる古鏃とともに、後に定信が編集した『集古十種』に収められている。

松平定信については、政治家として寛政の改革の推進者の印象が強いが、実は一流の文化人であり、江戸後期の文化に大きな影響を与えた人物でもあった。

詠帰亭篇額

松平楽翁(定信)像

松平楽翁(定信)像


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