教育福島0149号(1990年(H02)09月)-023page

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随想

日々の思い

 

古代文化と大沼高校

高橋政俊

 

風景の微妙な色合いは、毎日これを眺め味わう者のみが知る天の恵みであろう。

 

朝日に輝く会津盆地の西の衆山は、四季の移り変わりとともにさまざまな色彩りを見せてくれる。壮厳な山並みと広々とした田園風景の微妙な色合いは、毎日これを眺め味わう者のみが知る天の恵みであろう。

朝、車に乗って四十分が経過する頃、前方遥か、こんもりと茂った森が見えてくる。既に一面朝日に包まれ、多くの御神木に囲まれた「伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)」である。祭神は伊弉諾(いざなぎのみこと)伊弉册(いざなみのみこと)の二神と会津風土記では伝えている。元は町の西南にある明神嶽(みょうじんがたけ)に鎮座していたが、五五二年(貴楽元年)にこの所に遷し祭られたという。

私の勤める大沼高校校歌に「神代はるけきいにしえの 伊佐須美の森を日々に見て……」と歌われ、逍遥歌では「会津 伊佐須美 花の森……」・「あれは磐梯よ あれは明神よ……」などと歌われている。明神嶽も伊佐須美神社も、共に地域の人々には崇拝され、親しまれてきた証である。特にこの神社は豊臣秀吉や代々の会津城主からも深く崇敬され、手厚く保護されてきた記録も残っている。年間を通し祭事も多く、宝物も多数残っている。

この神社の南側を東から西へ。更に南から北へと半周して進んで行く。「文珠堂(もんじゅどう)」(一三三九年造創)が道路を挟んで位置している。

昔は運慶作の文珠菩薩を安置していたと伝えている。毎年二月二十五日には文珠祭があり、学問成就を祈願する受験生や親子連れの参拝者で賑わっている。

ここから数百メートル北に大沼高校がある。「誠実・明朗・健康」を校訓に、全校生徒八百余名が日々勤しんでいる。本校は特に地域の方々の篤い願いにより創設され、育てられ、護られて今日に至っていると聞いている。地域の人達の本校に寄せる期待や関心は想像を越えて大きいものがある。折りに触れ、膚でこれを感じる時、自分の仕事の尊さや責任感が身に染みて感じられてくる。惰性に流されることなく日々を過ごし、仕事を続けられることは、暖かい地域の方々や伊佐須美神社の神々・文珠菩薩等々の御加護なのかもしれないと思う昨今である。

会津高田町の各地区から出土する縄文前期の土器は五千年以上も前のものといわれている。故に会津高田町は会津文化発祥の地ともいわれている。

一日の勤務が終わり、田園に広がるホップ・薬用にんじん・葉たばこ・高田梅・リンゴ・会津みしらず柿・プルーンの木々等を眺めながら、朝来た道を戻って行く。途中、さまざまな思いに駆られながら………。龍興等(りゅうこうじ)の国宝「一字蓮台華経(いちじれんだいほけきょう)」をどんな思いで紺紙に金文字の筆を走らせたのであろう。会津風土記に伝える村中にあった五加木(うこぎ)清水や代官所跡で織り成したさまざまな人間ドラマ。「次右衛門・利三郎兄弟・市太郎・平助の妻」たちの孝行話し。「忠七・新七の妹しち」たちの忠義な行ない。等々を自分勝手に想像をめぐらせ、充実感に満たされる。

夕日に燃えた真紅の太陽を背に、将(まさ)に没せんとする暖かい陽に照らされながら家路へと車を走らせる。

(県立大沼高等学校教諭)

 

思い出のこどもたち

花見剛

 

途絶え、周りは山また山。しばらくして狭い道路の前に何人かの子どもが……。

 

私が初めて赴任したのは、飯豊連峰のふもとO小学校Y分校である。昭和四十五年四月、トラックの荷台に生活用品を積み赴任地へ向かった。まばらに見える人家もいつのまにかに途絶え、周りは山また山。しばらくして狭い道路の前に何人かの子どもが……。

はじめ離れていた子どもたちが「先生荷物持つよ。」と言葉をかけてくれる。手伝いにきてくれたのだった。「学校は?」「村は?」と心配になって聞くと前の山をさして、この峠の裏だ

 

 

 


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