教育福島0149号(1990年(H02)09月)-024page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

という。

次の日から、初めての担任、十二人の子どもとの生活が始まった。一つの教室に四年生三人、五年生五人、六年生四人、複々式授業である。計算がわからない四年生に六年生が教えてやる。シンクロファクスを相手に一人黙々と問題を解く五年生。私自身も無我夢中であった。

スキーの達人六年生のS君。かじかとりの名手五年生のY君。コスモスの花をいつも届けてくれた四年生のMさん。こぶしの花の咲く木の下でみんなで歌った「山の子のうた」。夜、教員住宅でソロバンをやったこと等々。つい昨日のようで、私にとって一生忘れられない十二人との出会いであった。

もう一人忘れられないのが、S小学校で担任したH君である。H君は、情緒障害児である。ほとんど教室にはいない。努めて話をするようにした。空き時間に必ず一緒に過ごし、ゲームをしたり、仕事の手伝いをさせたりした。

ある日のこと、ちょっとしたことで女の子に暴力を振るい、しかも興奮して暴れている。教室の机をはじの方に片付けて空いたところで私はH君と本気で相撲を十分近くとった。それ以後は、私の言うことをきくようになったし、友だちとも仲良くできるようになってきた。

秋の終わりのある日。校庭から拾ってきた銀杏の実を一生懸命に水道で洗っている。そして、何日かたった放課後、「先生くれる」と言ってコーヒーの空き瓶に2本持ってきてくれた。

私は何と言っていいかわからず「ありがとう」と一言。

H君は、今電気部品を作る工場で働いている。ぎんなんを食べるたびに思い出している。

教師になって本当によかった。すばらしい多くの子どもたちと出会い、心の触れ合いが持てて幸福であったと改めて感じるこの頃である。

今、生徒指導の在り方、重要性が問われている。その原点となるのは、先生と子どもの心の触れ合いではないだろうか。どんなに忙しくても「先生あのね」と話しかけてきたら仕事の手を止めて話を聞いてあげる先生、又、「先生一緒に遊ぼう」と子どもに声をかけられる先生。そんな先生になれるようにさらに努力していきたい。

(福島市立矢野目小学校教諭)

 

さようならヘレン先生

高橋道子

 

カメラで飯野と川俣の風景をたくさん撮って、故郷へのよいお土産にします。」

 

「この記念にいただいたカメラで飯野と川俣の風景をたくさん撮って、故郷へのよいお土産にします。」

送別会の席で、流暢な日本語であいさつするヘレン先生のほっそりした白い横顔を見つめていると、爽やかな緑の風が、サーッと流れてくるような感じがします。外国旅行でお土産に高級ブランドを買いあさる日本人女性の話をチラッと思い浮かべたからです。

ヘレン先生は北アイルランドの出身で昨年七月イギリスの大学を卒業すると同時に、英語指導助手として来日し、飯野、川俣両町のAETとして、私たちと英語の授業を共にしてきましたが、任期の一年間がもう来てしまったのです。「せっかく慣れてきたところなのに……。」と口々に、生徒達が残念がる気持ちが、私にもよくわかります。

私自身、はじめの頃の何となくぎこちないもどかしさが、共に授業をするたびに薄れ、彼女のもつ純粋でキラッと輝くものが見え始めてきたところでした。

はじめの頃、私が感じた一種のもどかしさは、彼女の前任者のAETのもつ雰囲気とは全く違ったものであったからかもしれません。

ヘレン先生のもつ雰囲気はどことなく日本的で、つつましやかな上品さが感じられました。日常の何気ない言動にも相手への思いやりの気持ちがにじみ出ているのでした。私の同僚の女の先生は感心してよく話してくれたものです。

「バスから降りて一緒に話をしながら歩いてきても、学校の玄関近くに来ると、いつも歩調をゆるめ、自分は後に下がるの、私が年上なので、さりげなく道を譲るのだと思うの」と。

目上の相手をたてようとするこの自然な振る舞いは、私たちが随分昔に置き忘れてきたもののような気がします。

彼女は私にもしばしば真剣な顔で相談してくれたものです。

自分はまだ日本語が完全でないために、他の先生方との会話の中で、気づかずに、失礼なことを言ってはいないだろうか、ということでした。私はいつも彼女を激励し、逆に彼女の他人への配慮と、節度ある言動について褒めると、彼女はすかさず、「それは母のしつけでしたから」と、きっぱりと答えるのでした。

時折、不作法な態度をとる子ども達に接している彼女にそう言われると、

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。