教育福島0149号(1990年(H02)09月)-045page

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ント得ているといわれる。「百聞は一見にしかず」とか、わたしたちが眼を閉じても更に見ようとするように、視覚が情報を得るための中心になる。しかし盲児は視覚に代わる感覚器官によって情報を得る必要がある。いわゆる視覚の代行である。触覚、聴覚を主として嗅覚、味覚などあらゆる感覚器官を活用して学習効果をあげる必要がある。

点字の教科書や図書は、触覚による視覚代行の代表的なものである。その他、触覚を利用した教材・教具には次のようなものがある。

立体地図、実物・模型・標本類、凸線を描くレーズライター、普通の文字を触刺敵に換えるオブタコン、立体コピー機などである。

まわりの状態を言葉で説明してあげることなどは、聴覚による視覚代行である。聴覚の利用による教材・教具には次のような物がある。

明るさの変化を音で表す感光器、音声電卓、点字ワープロなどに入力した文字やディスプレー上の文字を音声で知らせる装置、障害物の状態を音で知らせるソニックガイド、各種の音の出るボールや玩具類、テープレコーダーや録音教材などである。

盲児の運動については、ボールを転がすことで野球やバレーボールも可能であり、卓球を含めて盲学校の子どもたちに人気のあるスポーツになっている。

しかし、このような視覚代行のための教材・教具を利用しても、すべてが代行できるわけではない。また、単位時間内の情報量についても視覚は触覚の一万倍といわれることなどを考えると、盲教育は時間がかかること、実際に盲児が体験して学習する機会が少ないことなどを考慮した教育が必要になる。

(2) 弱視教育

わが国において弱視教育が組織的、計画的に行われるようになったのは、昭和八年の東京市麻布南山尋常小学校の弱視学級である。当時の弱視教育の基本は、残存視力の保護が中心で、眼を使わない教育が行われた。現在は、残存視力をいかに効果的に使うかが中心となっている。すなわち、視覚の補強ということになる。そのため、各種の弱視レンズの活用、拡大読書機(近用、遠用オプチスコープ)、各種の拡大教材などが工夫されている。その他見やすい環境の設定などへの配慮も大切である。しかし、弱視児の場合は視力以外の視機能の障害を伴うことが多く、一人一人の見え方に応じた配慮が必要である。

弱視児・盲児ともに、普通学級の子どもたちとの交流は社会性などを育てるためにも重要である。

 

五、視覚障害児の理解

視覚障害児に限らず、障害のある子どもの理解の基本は、みんな同じ子どもであるということである。

私たち晴眼者も、細菌のような小さな物や非常に遠い物は肉眼で見ることはできない。又、江戸時代の全盲の国学者塙保己一が、講義中灯りが消えたことに気付かず弟子にいわれて、「目明きとは不便なものだ」といったといわれるが、障害とは何かと考えてみる必要がある。

盲児は見えないために何もできないのではない。できないという思い込みから学習する機会を与えられず、学習できないことが多いのではないかと考える。

盲児の始歩は遅いといわれる。人間が身体移動の技術を得るのは視覚からの刺激によると考えられる。盲児の始歩も視覚刺激に代わるものを適切に与えることで、障害のない子どもと同じように発現するという報告もなされている。障害への配慮をしながら、同じように育てることが必要であり、そのことが盲児の体験や経験の拡大にもつながる。盲児のバーバリズムについても、言葉と実際の体験が結び付くことにより改善されるのである。

弱視児は視覚障害児と健常児の中間に位置し、不安定な立場になりやすい。そのため劣等感を持ったり、誤解を受けやすいことに注意する必要がある。

障害の程度により多少の違いはあるが、日常生活の面では盲児に比べて援助を必要とする場面は少ない。一人で外出ができたり、買物などもできる場合が多い。しかも外見からは障害があると気付かれにくいことも多い。しかし、視力以外の障害のため、見える範囲が限られ自分の足元やまわりの状態が分からない子ども、暗い場所では非常に見えにくい子ども、一つの物を見つめることができない子どもなど様々な問題があることを理解する必要がある。身体の発達に伴い、健常児との能力に差ができ、仲間に入りにくくなることなどにも配慮する必要がある。

いずれにしても、同じ子どもとして接し、できることとできないことを十分に理解して、適切な援助をすることが大切である。

 

表1

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