教育福島0150号(1990年(H02)10月)-022page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

に誘ってもお義理に入り身を動かすのもおっくうそうでした。友だちと言い争うことも、心から笑うこともなく、人としての感情が欠落したのではないかと思われるような子でした。

それは考えてみれば無理のないことで、T君の不幸な生い立ち(肉親全てに見捨てられ、里子として某家に引き取られた)に起因しており、彼の感性のゆがみは当然のこととしてうなずけるものでした。そんな無気力なT君にも目を見張るほど生き生きとする時があります。それは給食の時でした。息をつくのも惜しいというようにがつがつ食べる姿は一種異様に映るほどでした。

しかし、小人数の学級でしかも山間部の子ども達という地域性の故でしょうかT君を疎外することもなく温かく包んでくれるのでした。

そんな園での生活の中で、表情の暗さは変わらなかったけれど、T君はT君なりに幼稚園を安住の場としてなじんで来るのがわかりました。土曜日になると「明日は日曜日だから幼稚園に来れないよ」と言って涙を見せるのでした。

幼稚園で疲れてトランポリンの上で寝てしまうことがあります。しかし、すぐにガバッと起き上がり、「ぼくおねしょするから寝ないよ」と言うのです。みんなですいかを食べた時も、「ぼくおねしょするから食べられない」と、こわごわ口にするのです。

「今、食べれば大丈夫だから」と、言っても涙をポロポロこぼし、不安気な表情は変わらず、とてもいじらしく不愛想で見ておられませんでした。

T君は、その年の十一月、再び施設にもどることになりました。「T君、何がほしいの」と聞くと「パンがほしい」と言いました。そのパンを宝物でも持つように胸に抱きしめ、枯れ葉が木枯らしに舞う日の朝、別れていきました。「行きたくないよう」と、顔を涙でぐしょぐしょにして泣くT君の姿は初めてはっきり見せた自己の感情の表出でした。T君に笑いを取り戻すことができず、みんなと元気に活動することもなく終ってしまった事に教師の無力と限界をひしひしと感じた私でした。でも、この僅か七か月の短い園生活でしたがT君はT君なりに他の園児とは異った感性で園生活の良さに浸っていたのではないかとも思っております。

T君の幸せを遠くから祈っている私です。

(安達町立油井幼稚園教諭)

 

一歩を大切に

吉田政勝

 

が幻想的な美しさを創り出している。駅弁のカニ寿司とチクワが美味であった。

 

真夏の鳥取砂丘を裸足で走り回り、足が熱くなってくると海辺を走ったり海へ飛び込んだりして冷した後、再び五階建てのビルへ登るような急勾配の砂の山に挑んでいく。足腰への負担は相当なものがあるが、わき目もふらず走り続ける。さわやかな疲労感とともに一日が終わろうとしている。…砂丘ごしに、いか釣り舟の漁火が幻想的な美しさを創り出している。駅弁のカニ寿司とチクワが美味であった。

越後湯沢の午後、山の稜線を走っていると毎日のように雷に出会う。落ちはしないかと不安であるが、逃げ場がないので走りつづける。雨がシャワー代わりである。素足に小川の水の冷たさが心地よい。

今年も暑かった夏が過ぎ、さわやかな秋、長距離ランナーも各種大会で夏のトレーニングの成果を試すときである。今の私は、競技的な走り方はやめ健康ジョギング程度の走りであるが、この時期になるとレースに出場してみたくなったり、本県の長距離ランナーの動向が気になるのである。

近年、駅伝ブームといわれるが、昨年から始まり全県的な駅伝であるふくしま駅伝、青東の名で親しまれている東日本縦断駅伝、福島市で開催される東日本女子駅伝、京都で開催される師走の全国高校駅伝・新春の都道府県対抗女子駅伝と大きな大会が目白押しである。ロードレースを含めると相当な数になる。それぞれの目標に向かって頑張ってほしいものである。

どんなスポーツでもそうであるが、他と競い合うためには、まず、自分自身の心身のコンディショニングが大切である。特に長距離ランナーにとってこのことは重要な意味をもっている。長距離ランナーは、ひとたびコンディションを崩してしまうと、回復するには思ったより長くかかる場合がある。これは、長距離走は常に体力の限界近くまで使い果たすという特性からくるものと考えられる。

ところで、小・中学生ランナーが突然すばらしいタイムを出して第一線に躍り出てくることがある。本人をはじめ周囲の関係者はすぐにでもスーパースターへの道を歩めるよう期待することがあるが、ある面では当然かも知れない。しかし、時としてこのことが命

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。