教育福島0150号(1990年(H02)10月)-023page
取りになる場合がある。期待に応えるためレースへの参加のしすぎやオーバートレーニングに陥りやすくなってくるからである。
身体諸器官の発育発達過程には個人差があるが、全身持久性と関係の深い呼吸循環器系は、小・中学校段階ではまだ未発達である。現在では、少しの時間と経費をかければ運動生理学的なチェックはできるようである。若い長距離ランナーには、科学的なデータをもとに、あせらず本人が興味を失わないような状態で、ゆったりと、しかも長期計画に則ったトレーニングが大切であると思う。
生涯スポーツの時代といわれる昨今、各種のスポーツに取り組む子どもの数は確実に増加しているようである。
スポーツを愛するすべての子どもたちの夢をかなえてやりたいものである。
(県教育庁保健体育課指導主事)
飢えが最良の調味料ならば
冨塚哲三郎
空腹にまずい物なしと言うが、まさに「食べたい時がうまい時」であろう。反対に満腹の時は、どんなごちそうも匂いをかぐのさえいやなものである。
今夏、八十路を越える安田初雄先生(福大名誉教授)は、周氷河地形研究のため、祁連山脈の標高四千メートルまで登られた。帰国の前夜、一行は北京飯店に宿泊し、王府井の繁華街に出かけた。その時先生が、「山よりも疲れる」とおっしゃったのが印象深い。
先生は六年前、チベットに研究に出向かれた。標高四千七百メートルを越えるフィールドで、団員が高山病に苦しむ中、先生はずんずん歩を進められたという。そのことが、「団長、七十五歳の健脚」という見出しで、「青蔵高原を行く」という本に書いてある。
心にわき起こる感興こそ、活動の原動力であろう。かつてこんな場面に出あったことがある。各学校の生徒が集まった交歓会で、あるグループがほがらかに歌い始めた。するとたちまち皆が唱和し、歌声は集団全体を包んで大きく広がった。…と思う間もなく歌声は制止された。「やめ、やめ。その歌は、最後に歌って会を盛りあげるために、とっておきましょう」と。
引き潮のように感興は去り、その後は各グループが、ただプログラムを消化するために出しものを行うばかりで、白々しい思いのままに会は終わった。
別の話であるが、中学生の時こんな体験をした。保健体育の筆記試験で、下肢の運動から始まって、上肢→首→胸というように、徒手体操の順序を答える問題が出された。先生は、特別にできが悪かったとおっしゃっていたが、たまたま私はすべてできた。ところが少しもうれしくないばかりか、砂を噛む思いと空しさが胸にこみあげてきた。それからずいぶん年月が経った。何かの機会に、運動は心臓に遠い部分から始め、運動開始でただちに心臓に強い負担をかけないようにするなどの考え方を知り、胸のくもりが氷解した。理由を知りたい、納得したいという内心の欲求が満たされたからである。(合理的な体操の組み立てを、そのように単純に考えるだけでは不十分であることを知ったのは、後年のことである。)
人は感興に乗れば、意欲的に学習や仕事ができるであろう。「下手の横好き」というが、成果が思わしくなくても、好きなことには打ち込めるし、生きがいも感じられるよう。反対に、はた目には成果があがってうらやましく見えても、当人の心にそぐわないことには、いのちが燃焼しないものである。
そのような心情の機微など全く無視して、ただ頭の中でプログラムを設定し、そのとおりにコントロールすればうまくいくという考え方は、十全ではないように思われる。児童生徒には、自己実現をめざし、伸びようとする芽が内在している。それは、固い表土をも破って伸びる生命力にあふれている。
それを学習意欲に結びつけて、授業を展開することができるなら理想である。ところが現実には、画一的なプログラムに従って形式的にコントロールしようとする態度で臨みがちではないかと反省することである。それでいて、児童生徒に「意欲がない」と判断するのは、錯覚ではないかとも思われる。
惚れて通えば千里も一里だが、気にそぐわない道は一里も万里であろう。頭で考えた授業のプログラムに命を吹き込み、生徒の心に届く授業ができるようになりたいとは思っても、実現は難しい。しかし、たとえ失敗が続こうとも、一歩でも半歩でも歩を進めようとすることが、教職にあって給を食む者の務めであろうと思うことである。
(県立福島高等学校教諭)