教育福島0151号(1990年(H02)11月)-027page

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随想

日々の思い

 

追想

「樺太」・北海道

中岡仁志

 

聴いてくれる話というのは私の小中学生時代の波乱に満ちた体験談なのである。

 

生徒に「樺太」や北海道の話をすると、喜んで聴いてくれる。時間切れで話が途中で終わろうものなら、次の時間に“つづき”を催促される。この興味をもって聴いてくれる話というのは私の小中学生時代の波乱に満ちた体験談なのである。

私の生まれ故郷は、樺太・豊原市。小五の夏休みのさなか、ここで終戦を迎えた。父は山口県出身、長州士族の出であると、よく自慢をしていた。当時は、世界恐慌の余波で不景気が続き学歴のない父は、職を転々としていたらしく、わが家には“贅沢”は無縁だった。おまけに私が三歳、弟が二歳の時に「日華事変」が始まり、父は“歓呼の声”に送られて、北支へ出征。母は「軍手」編みに精を出し、隣組に助けられながら、私達を育ててくれた。

当時の樺太は、軍人五万人を加えると人口四十万人。じゃがいもがおいしく、近所では、襟巻用の「きつね」の飼育が盛んだったことを記憶している。この樺太の自然、風物を紹介し、日系ロシア人や朝鮮人、アイヌ人の少年達と過ごした小学生時代の思い出を語るのである。その中には、ソ連の爆撃を受けた時の恐怖や、忘れ得ぬ学友や担任教師との数多くのエピソードも入っている。

終戦は、私達を樺太から追い出した。八月二十日、大泊港から宗谷海峡を渡って、稚内港に無事入港できた。この日から私達は、北海道の人となった。父は樺太に残されたので、再び母子家庭の生活を味わうこととなった。

稚内駅から名寄市を経て、下川村に降り立った。農業を営む母方の親類を頼ったのである。生まれて初めて見る黄金色の稲穂に目を見張った。登下校は、たんぼの畔道を走った。しかし、中一の六月に父が引き揚げて来るまで弟と交代で学校を休み、三歳の妹の面倒をみた。母が働きに出たからだ。母の仕事は、行商だった。

中学では野球部に所属し、選手にもなったが、学業成績においては劣等児であった。小五からの長欠が崇った。しかし、中二の後半から猛烈に勉強した。成績優秀な野球部仲間に刺激を受けたのである。とくに、山影君や渕沢君に感謝したい。また、中三時代の学級担任、池田先生にもお礼を申し上げたい。私が将来教師になりたいと思うようになったのは、この先生の姿を見てのことである。高校時代を含めて感化を受けた先生方の多くは、今でいう初任者の先生方だった。教え方はお世辞にも上手と言えなかったけれど、生徒に立ち向かう情熱は、年輩の先生方のそれを上回っていた。私達生徒は、それに惚れ込んだのである。

さて、今、私共の教えている子供達は、大人になり親になってから、自分の少年時代を、どう語るであろうか。楽しみでもあり、怖くもある。教え子の結婚披露宴に招かれ、祝辞をと頼まれて、ほっとする私である。

(中島村立中島中学校教諭)

 

愛するということ

横江さやか

 

がよく舞い込むようになった。笑ってすませられる年でもないのかも知れない。

 

「先生、まだ結婚しないの?」二十四歳ともなれば、生徒によくこんな質問をされる。「相手がいないとできないことだからねえ」と笑って答えることにしているけれど、そういえば、友だちからの披露宴の招待状がよく舞い込むようになった。笑ってすませられる年でもないのかも知れない。

バリバリのキャリア・ウーマンを目指したわけではないが、責任があって自分自身も成長していける仕事がしたいと思って教師を選んだ。大変なのは覚悟の上、せめて一人前に仕事をこなせるようになるまでは、仕事優先の生活をしなければならないような気がしていた。いや、そんなことを考える暇もなく忙しい生活を送らざるを得ないのが現実だが、自分の選択は間違っていたのじゃないか、かわいいお嫁さんになっていた方が良かったのじゃない

 

 

 


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