教育福島0151号(1990年(H02)11月)-030page
ど子供達の方が、自然な形で接するようになっていた。
また、年長児は、足の不自由なK君のために、砂で滑りやすい階段を毎日自主的に掃き掃除するようになり、クラスだけでなく、園全体で二人を受け入れていた。
そんな時、K君に対する見方を変えさせてくれることに出合った。
当園では、創立以来、五月に片道三キロメートルある「子どもの村」まで、年長児が年少児の手を引いて歩く遠足を実施している。
K君にはとても無理な距離と思い、「途中まで歩いて、車で行っては」と母親に相談した。「歩ける所まで歩かせ自信を持たせたい。父親、祖父も同行したい」という言葉が返ってきた。家族が一丸となりK君のためならという姿勢に、私達も心をうたれ、実行することにした。
K君は、三キロメートルの山道を皆に見守られながら頑張って歩き通した。
何がそうさせたのだろうか。それは家族の愛と本人の意志、周りの人々の理解と励ましではなかったか。ともすると大人は外観だけを見て判断したり、評価しがちだが、目に見えない心を育てていく事が大切であり、子供の内面を理解するように努めたいと痛感したのである。
秋の運動会、全員参加のリレーではK君に対し、スタートの位置を変えたり、また、バトンの受け渡しが出来ないY君には手を引いて一緒に走って参加させた。二人の懸命な姿に、会場から自然と拍手や声援が響きわたり、心あたたまる歓声に本人も満足した様子であった。
こうした、暖かい雰囲気の中で、K君は体力がつき始め新しい遊びにも挑戦する姿が見られるようになった。Y君はオウム返しではあるがことばを発するようになってきた。
女性登山家、田部井さんの講演の中で、「登山家は、四十代からが青春」とか。さあ、私も今が青春、自分をどう変えていくかが私の大きな課題である。子ども達と共にがんばろう。
K君、Y君 がんばれ!
(いわき市立四倉第一幼稚園教諭)
心と言葉
佐藤道
「あたたかい言葉を聞くと
あたたかい言葉を
使いたくなる不思議」
これは私の大好きな言葉である。この言葉は、一茶まつりの排句を学校で応募した時に、炎天寺の住職さんから贈られた色紙に書かれていたものである。
この言葉に出合った時、心にあたたかいものが広がっていったのを覚えている。この言葉を口にすると、なぜかやさしい気持になって、みんなにあたたかく接することができそうな気がしてくる。忙しさに紛れてとげとげしくなったりしている心にやさしさとあたたかさを取り戻してくれる。
この言葉とともに思い出すのが、当時三年生だったT君のことである。T君は、ちょっとしたことでいらいらし、友達とトラブルをおこすことが多かった。
私が出張で出かける時のことである。「先生、さわいでいる人の名前を書いておいた方がいいんじやない」と子供が言った時、
「先生はがんばっている人の名前を聞きたいな」
と言ったことがある。このことがきっかけとなって友達のいいとこ見つけが始まった。いいとこ見つけとは、友達ががんばっていることや親切にしたことなどをみんなに知らせていくことである。日記の中に友達のいいところを見つけて書いてくると、それをどんどん読んでみんなの前に出してやった。一日の終わりの会でも友達のよいところを見つけて発表する子が増えてきた。はじめてT君のよいところがみんなの前で発表された時のうれしいような、てれくさいような、困ったようなT君の顔を思い出す。
落ちていたごみを拾ったり、友達が忘れてきた色鉛筆を貸してやったりという本当に小さなことではあったが、自分から気づいて行動したことを友達や先生から認められればうれしくなる。そして、またがんばろうと努力するようになる。そんな中でT君は少しずつ変わっていった。女の子をつねったり、ぶったりしなくなった。人をばかにするような言葉もだんだん減ってきた。そして、いつの間にか子供たちからの苦情も少なくなっていった。人から認められていることが、T君の心を安定させ、友達にやさしくさせたにちがいない。
よいとこ見つけをしていく中で、T君だけでなく、まわりの子供たちも人を見る目が変わり、友達を見直し、自分も変わっていったように思う。