教育福島0152号(1991年(H03)01月)-023page

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随想

日々の思い

 

母を想う

吉田千鶴子

 

ものなのだろうか。世の中には、子供を産みたくても産めない人さえいるのに。

 

先日ある新聞で、自分の子供に愛情をもてない母、付け加えて最近小児科医の間で、「愛情欠乏性小人症」というのが注目されているという記事を読んだ。読み終えてとても心が傷んだ。様々な要因が重なって、このようなことが起こってくるのだろうが、何か月も自分の胎内で育くんできた母と子の絆はいったいどうなったのだろうと思う。母と子の関係は、そんなにも繊細なのだろうか。そんなにも崩れやすいものなのだろうか。世の中には、子供を産みたくても産めない人さえいるのに。

私を育ててくれた母も子供を産めない人であった。私は、六歳の時伯母の家の養女になった。幼い頃から慣れ親んできた家なので、特に違和感はなかった。でも、近所の人や仲良しだった友達に見送られ家を出発した時は、さすがに悲しかった。養父は、土曜日になると私を実の両親や兄弟の待つ家へ連れて行ってくれた。兄弟や友達と遊んで帰る次の日は、とても寂しくて子供ながらも養父母に気をつかい隠れて泣いたこともあった。

養母は、もともと身体の弱い人で、よく風邪などをひいては床に就き、診療所の医師が往診に来ていた。養母の部屋は病院臭かった。それにもかかわらず、畑仕事や庭いじりが好きで、いろいろな草花を植えては楽しんでいた。季節の変化にもとても敏感で、まわりの風景を見ては季節を感じとり、和歌などをつくっていた。

私が養母の愛を愛として初めて感じたのは、小学生の時である。小学校の卒業式の朝、養父と一緒に出かける私の姿を見て涙を流した。子供心に何となく養母の気持ちには気づいたが、その時は、「何泣いているの」という言葉しか出てこなかった。高校受験の時、養母はお寺参りをして合格を祈ってくれた。信仰深い人であったが、その時は、「何て大げさな」と思った。養母の気持ちはわかっていても、素直に「ありがとう」と言えない年頃であった。

私ばかりでなく、自分とかかわりのある人には、いつも親身になって心をかけた。一族の困難を一人で背負い込み、それでも弱音一つ吐かなかった。楽天家のように見えた養母にも、若い頃には、自らの命を捨てようと思う程の絶望感を味わったことがあるという。私が大学生の時、それを話してくれた。想像もできない程の出来事であった。だからこそ、誰にでも大きな心をもって接することができたのかもしれない。

私が教師になって二年目の冬、養母は脳血栓で倒れ帰らぬ人となった。晩年、心臓病と闘ってきた養母は、「六十歳まで生きられればいいよ」とよく言っていたが、五十七歳であった。

今、私も三人の子の母となり、教師として様々な心をもった生徒と接する時、自分の心の狭さを反省し、養母のような慈悲深い心で子供達を育てることができたらと思うことがたびたびである。もうすぐ十五回目の命日が来る。養母は、私の母親ぶりをどう見ていることだろうか。

(県立長沼高等学校教諭)

 

郷に入らば

鈴木健生

 

ドア生活は好きな方であったので、転勤に関しては、さほど悩みはしなかった。

 

千葉から福島に来て、はや三年が過ぎようとしている。数千世帯もある団地群を学区に持つ都市型の学校と違い、今は、田畑・果樹園などの緑に囲まれた学校に勤務している。もともと山歩きやアウトドア生活は好きな方であったので、転勤に関しては、さほど悩みはしなかった。

しかし、生まれも育ちも千葉であり、六年間、千葉で教師生活を続けた私にとって、福島に来ての最初の一年間は、戸惑いや不思議に思えることばかりであった。

まず第一に、『言葉』であった。五

 

 

 


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