教育福島0152号(1991年(H03)01月)-025page

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学校教育の中でも大きな影響を与えてきた。しかし、今や、授業のなかに裸で据えるだけでは、若い生徒の感覚を説得できる強力な武器ではなくなってきている。これからは、多様な音楽を求めるようになった生徒一人一人の個性を認め、その能力をさらに高める音楽教育が望まれている。

従来のように、西洋音楽はハイレベルであり、これを学習しさえずれば豊かな情操と感受性を養い、立派な人間に育つ」というような建前的な存在意義の指導だけでは、これから多くの問題を残すことになろう。音楽大学で学んだ偉大な芸術を最高のものとして大上段に構えるのではなく、様々な音楽を授業のなかに取り入れたり、大曲、名曲も単なる欧米の模倣のみに終わらせない、自分なりの「日本の音楽」教育への工夫が、今、最も求められているのである。

(県教育庁高等学校教育課指導主事)

 

生徒と共に学ぶ

熊田俊彦

 

経てきた私にとっては、まさに夢にまで見てきた「教諭」という二文字でした。

 

平成二年三月二十八日。この日を待ちに待って、そして、ふるえる思いで手にした辞令。そこには、田島中学校教諭の文字がはっきりと書かれてありました。三年間の講師生活を経てきた私にとっては、まさに夢にまで見てきた「教諭」という二文字でした。

そして、今、一年三組の学級担任として、また、柔道部の顧問として、八か月が過ぎようとしています。

この間に実にいろいろなことがありました。母子家庭の生徒が多いのにもかかわらず、「お父さんにもしっかり読んでもらうんだぞ」と、学年通信を渡してしまったり、次の日の授業変更を間違えて伝えてしまって、生徒に迷惑をかけてしまったこともありました。また、クラスの中で一番体格のよいN君が弁当を忘れてしまったときに、何気なく自分の弁当を分けてあげたら、その生徒のお母さんから、「先生の思いやりをありがたく思いました」という、思いも寄らぬ感謝の手紙をもらったこともありました。

一日一日と積み重ねていく中で、自分のちょっとした行動や言葉が、実に大きな影響力を持って生徒や父母に受け取られているのだなと、痛切に感じさせられました。

一方、部活動では、まったく経験のない柔道部の顧問になりました。中学生とはいえ、七・八十キロは、もちろんのこと、九十キロ、百キロの大男たちの中で、戸惑いながらも、一緒に汗をかくしかないと決め、柔道着に袖を通しました。練習のハードさに、全身が筋肉痛になって、立つことさえ苦痛に感じたこともありました。受け身が上手に取れずに目の上を紫色に腫らしたり、膝を痛めたこともありました。そんな、柔道には素人の私でも、生徒たちは、ばかにすることなく慕ってくれ、何の不安もなく部活動ができました。今年、彼等と共に、白河・郡山・会津若松と練習試合を重ね、県総体でいわきに行き、そして、中体連の県大会・東北大会に参加する中で、彼等と共に喜びを分ち合えたことは、私にとって極めて貴重な経験でした。また、彼等の練習に取り組む真剣な姿を知っている私にとって、彼等が県大会の準決勝で負けた時に流した涙、一生懸命に、本気になってぶつかっていった者だけが流せる涙を見たとき、悔しさと同時に「ああー、先生になって良かった」という思いが心の底からわきあがってきました。

この八か月間、校長先生をはじめ、先輩の諸先生方に導いていただき、また、生徒たちからも学び、さらには、洋上研修や国立磐梯青年の家などでの研修を通して、人間としても教師としても、成長させていただきました。私の教師としての道は、まだ、スタートしたばかりです。謙虚に学ぶ姿勢を忘れることなく、生徒と共に喜び、悲しみ、悩み、時には厳しく叱り、そして、褒め、共に向上していきたいと思います。

(田島町立田島中学校教諭)

 

郷土再考

齋藤茂幸

 

アパートで単身赴任、週末だけ家族と共に長野県の村で過ごしているのである。

 

先日、テレビの番組で、一人のサラリーマンの特集を放送していた。その人は東京の会社に勤めているのだが、長野県のある村にマイホームを求め、月曜日から金曜日までは東京のアパートで単身赴任、週末だけ家族と共に長野県の村で過ごしているのである。

 

 

 


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