教育福島0152号(1991年(H03)01月)-026page

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最近の地価高騰がその背景にあることは疑うべくものないが、番組を見ているうちにそれだけが理由ではないことに気がついた。日曜日に子供とともに畑仕事をするそのサラリーマンの表情が何とも言えず輝いているのである。もちろん一緒にいる子供の表情も。

人間が生活の中で安らぎの時間を得て、自己を見つめようとするとき、本能的に求めるものはその人の郷土であると言われる。また、郷土にはかけがえのない「教育力」が潜んでいるとも言われる。かの都会人サラリーマンはこのことに気付いたのかもしれない。

我々田舎に住む人間はどうだろうか。美しくも厳しい自然、そこに様々な工夫を凝らしながら生きている人々、脈々と受け継がれてきた文化、伝統、これからのことをさして気にもとめず見逃してしまっていることが多すぎはしないだろうか。子供だけでなくて教師も「郷土がよく見えていない」のが現実のような気がするのである。

私が勤務する西会津町では、昨年度「わたしたちの郷土西会津町」を編集発行し、今年度から各学校で、主に三・四年生の社会科の授業の中で活用している。私もその編集委員の一人として「人々のくらしと商店のはたらき」の部分を担当した。

最初に自分の割り当てが八ページであると分かったときは一週間、長くかかっても一か月でできるだろうと高をくくっていたのであるが、春先から取りかかったこの仕事が一向に進まないのである。いや、簡単には進められなかったというのが本当かもしれない。なぜなら、町を歩き、商店を一軒一軒訪ねていくと、そこには必ず「人間の営み」が感じられたからである。

客を増やそうと様々な努力をしている商店会の人々、集落に一軒しかなくその地区の人々にとってなくてはならない役割を果たしている店、やがて開通する磐越自動車道に期待をよせる食堂の主人など。越後街道の宿場の名残をとどめる駅前の商店街を通りながらこれをどのように分かり易い文章で子供たちに伝えようか、写真は…、と考えながら、ようやく自分の割り当てが完成したのは、十二月の最終締め切り当日であった。

これからの教育は、国際化に対応できる人間を育てていくことであり、それは、郷土の文化や伝統を尊重する人間を育てることから始まる。そのために、私はもう一度郷土をよく見つめ直してみたいと考えている。自分の足で歩き、自分の目で確かめたとき、そこにはまた新たな発見や感動が待っていてくれるだろうと思う。

(西会津町立野沢小学校教諭)

 

出会い

庄野直美

 

いう職業を選んだのは、中学時代の養護の先生との出会いがあったからである。

 

職業を選択する動機は人によってさまざまであるが、私が養護教員という職業を選んだのは、中学時代の養護の先生との出会いがあったからである。

中学二年の秋のこと、生徒会の奉仕作業のため近隣の農家で稲刈りの作業をしていた。級友たちと横一列に並んで稲を刈っていた時、あまり農作業をしたことのない私は、一瞬のうちに自分の指までも切り落としてしまった。田んぼに落ちた指先、私を取り囲み騒然となる級友たち、うろたえる農家のおじさん、茫然自失の私。そのような中で、駈けつけた養護の先生は、「大丈夫よ、心配しないで」と言いながら落ちている指先を拾い、自分の手が血で汚れるのもいとわず、私の手の応急処置をして病院へ連れて行ってくれた。友だちの前では涙を見せまいと思っていた私だが、病院の待合室ではこらえていた涙があふれ、先生の胸で思わず泣いてしまっていた。茫然としていた私を励まし、勇気づけ、そして肩を抱いて思い切り泣かせてくれた養護の先生。あの時に先生が着ていた紺色のカーディーガンと先生の匂いを今でも思い出すことができる。

けがをしたことで、養護の先生と話をしたり、病院で働く看護婦さんたちの姿を見たりする中で、地味な職業だけれど、人々の支えになれる職業もあるのだなと考えるようになっていた。その後、高校生となって進路を決める時には、当然のごとくこのけがと養護の先生のことを思い出していた。けがの傷跡は残ってしまったが、けがをしたことで多くの人々と出会い、広い視野から物事を見ることができるようになったように思う。

日々の執務の中で、私は子供たちとどのような出会いをしているのであろうか。大人の感覚としては些細なことであっても、子供は小さな胸を痛めて悩んでいることがある。自分の心の中で消化不良を起こすと、それがさまざまな身体症状となって表われてくる。心因性と思われる腹痛や頭痛、気分不快などは日常茶飯事である。

 

 

 


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