教育福島0153号(1991年(H03)02月)-007page

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教師の真剣な姿は子どもたちの心に響く

 

教師の真剣な姿は子どもたちの心に響く

 

コツを分かり易く教えてもらった為である。それに調子付いて、跳び箱なども人並みにできるようになったし、跳躍板だけでの宙返りも教えてもらった。

これは自分で才能がないと思い込んでいたのを啓発された例だが、その逆もあった。

私は図画が上手だといささか天狗になっていた。二階の窓から、学校の近くにある威徳院の写生をしたことがある。ところが、貼り出されたのは私のではなく、かねがね下手だと見くびっていた巌ちゃんという子のものであった。瓦を一枚々々丁寧に写すよりも、赤い屋根を如何にも赤く、緑の杉を如何にも濃い緑に描いた方が、心に感じた印象が正直に現わせていて宜しいという説明であった。

頂門の一針とは正にこのことであろうか。同じ思いの我々数人は、それから毎日々々の放課後、多いときには一週に五日も写生に出掛けた。我々は生意気にもゴッホやセザンヌや今では記憶されている方が少ないかも知れない牧野虎雄などを尊敬したものである。

この先生にも欠点があった。それは極端に照れ屋だったことである。例えば、児童を代表して何か挨拶をさせなければいけない時に、その日の朝まで何も指示して置かれないのである。自分の組から代表を出すことに照れていなさったからであろう。

お蔭で我々は、突然の命令に応えるにはアドリブしかないことを覚えはしたが、同時に照れの癖が強く伝染したことも事実である。正直、これから回復するには努力を要した。

いま顧みても時々考え込むことがある。練達の教師も必要だが、経験は不足でも若い情熱もまた大切なのではあるまいかと。

 

 

 


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