教育福島0154号(1991年(H03)04月)-045page
博物館ノート
士族授産と安積開拓
明治維新で国家的自立を達成した政府にとって、その経済的基盤創出のための殖産興業と、維新によって将来の特権を失った士族への授産政策が、以後急いで解決しなければならない問題となりました。安積開拓と安積疎水事業は、これらの問題の解決を目指した政策の一つでした。
明治十一年(一八七八)、前年におきた不平士族による最大の反乱であった西南戦争を鎮圧した内務卿大久保利通は、「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」を太政大臣三条実美に提出して、殖産興業と士族授産のために士族開墾が必要であることを述べ、さらに政府直轄事業としては初めての士族移住による安積原野の開拓と、開拓した新田への灌漑を主目的とした疏水事業を建議しました。この安積の地が選ばれた理由として、旧福島県独自の政策による二本松藩士の移住、また郡山の富商が出資した開成社による開拓が行われていたことがあげられます。
大久保の建議によって明治十一年の久留米藩を初めとして同十六年の米沢藩まで、全国から合せて九藩の藩士が移住し、疏水も同十二年に着工され、南一郎平・伊藤直記ら日本人技師によって同十五年、延長五十二kmの幹線と七十八kmの分水路が完成しました。しかし移住者のほとんどが農業に不慣れであったことや、開墾地のために地力が劣り生産性が低かったことなどから、疏水完成後も生活は厳しく、移住した人の多くが借金のために土地を手放し他へ転出するなど、安積開拓には大変な苦労がありました。
猪苗代湖図館蔵(山口コレクション)
(右)日本水政(表紙)船引町
(左)日本水政(裏表紙)伊藤直喜氏蔵
安積開拓事業展示風景