教育福島0155号(1991年(H03)06月)-025page
ちを持ち、常に意欲あふれる教師でいたいと思っている。
(県立郡山女子高等学校教諭)
出会いから
大内宏子
「先生、十年後のこの日、この桜の木の下でみんなが集まれるといいね。」
「そうしようよ。」「先生、二十年後も絶対会おう。」
新校舎落成の記念樹を植えながら、生徒たちは顔を上気させ語りかけてくる。
「先生」と呼ばれて二十六年。私の教師生活は、生徒や同僚、父兄、家族と多くの人たちによって支えられている。その中でも、二人の先生との出会いが忘れられない。
私が中学三年生のとき担任されたM先生は、四月四日、出会いの第一声が、「君たちは眠れる獅子だ。目を覚ました君たちが楽しみだ。」
この言葉は一人一人の心を揺さぶり、それまで絶えず先生方から注意を受けていたクラスが、またたく間に変わっていった。
たったひとことでクラスを変えたM先生。私はM先生に感謝するとともに、自分がクラスを担任するたび、教師のひとことが持つ底知れない力を新たに感じている。
T先生との出会いは、我が子が小学校へ通うようになってからのことである。授業参観というのに、娘は先生の話も聞かず、机の中を整理し始め、片付け終わると満足気に私を見て笑っている。何という度胸のよさあきれ果ててしまった。家庭訪問の折、こんな娘なのでと話すと、「それは子供が悪いんじゃなくて、子供を飽きさせてしまう授業をする我々教師の責任です。」とさりげなく答えられた。子供が授業に集中しないことを自分の指導力のなさと謙虚に受け止める誠実な先生。こういう先生だからこそ、娘は朝から晩までT先生の話にあけくれ、学校が楽しくてしょうがないといったふうに、意気揚々と毎朝出かけていく。
この娘の姿から、T先生が慕われ、信頼されるのも当然であり、親としてもこのような先生と出会えたことに満足感と安心感を抱いた。そして、はたして、自分はあのような先生であっただろうかと反省させられ、T先生のような教師に一歩でも近付きたいという思いにかられたのである。
私は、この二人の先生との出会いから、生徒に対し、正面から彼らに向き合っていくところに心の通い合いがあり、それこそ教師の生命ではないかと思うようになった。
そして、年を取り、経験を積むごとに、教師の責任の重さを痛感し、「M先生やT先生のような教師であるか。」と自分に問いかける毎日である。
(石川郡玉川村立泉中学校教諭)
国体に寄せて
鈴木貞喜
大観衆の見守る中、福島県選手団の旗手として、責任の重さを感じながらトラックを行進した。
「沖縄国体」。私は、この時のぬけるような空の青さと、その時の胸の鼓動を、生涯忘れることがないと思う。なぜなら、この大会で、八百メートル第八位という不本意な成績のままに選手として最後の国体となってしまったからである。
中学、高校、大学とひたすら走り、競技に「いかにして勝つか」ということばかりを考えて練習に励んでいた。大学卒業時には、いくつかの県外の実業団からの歓誘を受け、心が揺らいだが、自分の生まれ育った故郷への愛着と、自分をここまで育ててくれた先生方への感謝の気持ちが福島県での教師の道を選択させた。
しかし、私にとっては、安易な道ではなかった。大学卒業後三年間は非常勤講師であった。教師を目指しながら一人でトレーニングに励んだ。この苦しい状況の中での支えは、「走ること」への魅力であり、選手として活躍し、恩師の期待に応えたいという気持ちであった。
その後、教員として正式採用になり、より意欲的に練習に励んでいた矢先、ヘルニアを患い、三ヵ月もの入院生活を強いられることになった。陸上選手としての夢は打ちくだかれたことはもちろん、教員生活にもピリオドを打たなければいけない