教育福島0155号(1991年(H03)06月)-028page
かせてくれることが起きた。
四年生から担任してきた六年生二十四名。気心が通い合い、お互いに何でも言い合える関係になりつつある子どもたちである。
この中にT君がいる。T君は、喜怒哀楽の感情の変化が大きい方で、時として大きな声を出したり、涙をこぼしたりすることが何度かあった子である。私は、そのたびにT君によく話して聞かせたり、心配りをしてきたが、T君を変えさせることはできなかった。
ところが、先日の理科の授業を境にして、T君に以前とは違った姿が見られるようになってきた。
それまでのT君と言えば、友達が実験する様子を、ただただ見ているだけのことが多かった。このT君が、自分の考えで、自分の手で実験に取り組み、結果を出したのだった。すると、同じグループのSさんとMさんが、「先生、T君ができた!」とうれしそうな、張りのある声で叫びながら歩み寄ってきた。その瞬間、クラス中の子ども達がT君のところに集まった。友達の賞賛の声の中で顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにしているT君。その時のT君の表情には、うれしさがにじみ出ていた。
このことがあってから、毎日、T君の生き生きした姿が見られるようになった。
これまでの私は、とにかく一人一人を何とかしようと必死だったものの、子ども同士のかかわりに目を向けることは少なかった。T君の変容ぶりから、子どもが子どもに及ぼす力の大きさに感動し、「子どもたちに教えられたな。」としみじみ思った。
「子どもの学び」とは、一人一人が自分の力で精一杯学ぶこと、そして、共に磨き合うことである。私は、子どもたちにとって、学ぶ楽しさや喜びを味わうことがいかに大切であるかをT君の姿から改めて強く教えられた。
(郡山市立金透小学校教諭)
忙しさの中で
小杉誠
四月下旬ころから、カトマンズからよく見えていたヒマラヤの白い姿は、雲の中に隠れ、そろそろ雨期のはじまる季節であろう。
はやいものでもう四年ほど経ってしまった。大学卒業と同時にネパール王国へ行った。(青年海外協力隊)そこでの三年間の生活は、私の中に、新しい物差しを作ってくれたように思う。
技術協力の名のもとに行ったはずが、彼らから教えてもらうことの方が多かったようだ。何しろ彼らの生活力、生活の知識は大変なものだ。しかし文明に溺れた日本人には、大きなカルチャーショックの後に、はじめて理解できるものが多い。
彼らに良かれと思う発想は、すべて日本式である。私の上司は言った。
「私は、日本へ研修に行ったが、東京はものすごく発展した町だ。しかし、ネパール人には合わないし、日本の様な発展は望まない。私は友人とお茶を飲む時間を大切にしたいし、家族に病人がいる時に、働きたいとは思わない。東京には森がない、人が多く落ちつかないよ。」
彼は、アメリカで修士課程を取得したエリートでもある。ネパールで生活している間に、私も日本が奇妙な国に見えはじめた。大きな疑問に悩まされた。
ネパールの極西部にカプタルと言う国立公園がある。そこにはヒンズー教の仙人が住んでいた。ある休日にネパールの友人達と遊びに行った。友人達は家族の事や、病気の事を相談していた。私は、「発展するということはどういうことか」と尋ねてみた。仙人は、今、ネパールやインドは、大変遅れている。世界の国の中でも一番うしろを歩いているだろう。しかし、もし考え方が変われば、私達の国は一番先頭を進んでいるのです。自分の心の中をフォーカスして、本当に望んでいることを見つけそれに向けて努力することです。」
日本が奇妙に見え、ネパールにいる時に、日本が失ったものに触れたような感動は、帰国してから、日本の忙しさの中で少しずつ薄れていくようでなりません。今春、「開発教育」をやりたくて、生徒を募集したが、一人しか集まらず、ボツになりました。新しい世代ほど、ギャップが広がるようで悲しいかぎりです。
日本では使い物にならない私の新しい物差しは、皆感じていることではないでしょうか。毎日の生活の中で、二つの物差しを取り出して、二つの結論に私自身が迷っているのが現実です。でもどうしても捨てきれず、逆にもっと研きをかけたいと思っています。
(県立川口高等学校教諭)