教育福島0156号(1991年(H03)07月)-024page

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担任

田代実

 

、それに近い本校に来て一年、我が身はというと、さほど変化はないのである。

 

いつであったか、女子校へ転勤していった若い先生が、二カ月も立たないうちに、急におしゃれになり、言葉遣いももの柔らかくなっていたので、からかったことがあった。毎日同じネクタイや背広では、何となく女の子の目が気になるし、また、男子相手のように雑な言葉遣いもできないのだと言う。その時はそんなものかと思っていたが、彼だけでなく、他の先生にも見られる現象に気づいては、個人的資質のせいだけではないらしいと思ったりもしていた。女子校ではないが、それに近い本校に来て一年、我が身はというと、さほど変化はないのである。

教師になって二十余年、教室に行っても廊下に出ても、常に女子生徒の顔がある(それも数人などという生易しい数ではない)というのは初めての体験で、あの甲高い話し声は何とかならないものかと少々閉口したが、今年一年の担任をすることになった。四十五名中、男子はわずか六名(一学年全体でも百八十名中、男子は二十六名)のクラスである。

遅刻をするな、提出物は期日を守れ、挨拶を忘れるなと、相変わらずの小言。高校生なら一度で分かってくれるだろうと思って高校教師を選んだのに、それは甘かったと気づいて、もう何年になるか。スカートの長さを計ろうとしてエッチとからかわれ、遠足に行けば、一緒に写真を撮ろうと誘われるのは若い先生だけで、こちらにはとんとお呼びはかからない。ああ、疲れる、俺の職業はサービス業かと嘆いていたのに、オジンの域を既に越したかも知れぬ身で、またクラス担任をしている。

校内球技大会がある。担任でなければ少しは楽ができる。だが、一抹の寂しさが付きまとう。「先生、優勝したら何おごってくれる?「先生、負けちゃった。」「次の試合は勝つからね。」担任でない時の寂しさは、生徒たちと感動を共有できない寂しさである。髪をぐっしょり濡らし、汗をキラキラ輝かせている顔。級友の名を呼び、声を振り絞って応援する顔、顔。この歓喜と、また落胆の渦の中に飛び込めるのは、担任しかない。担任以外の身のときは、いつも場違いの存在を感じていた。

「先生、割算の仕方、分かったよ。」と、A子が言う。新学期が始まってまだ日も浅い頃、放課後の教室で、大きなソロバンを使い、A子たちと割算の練習をした次の日の朝のことだった。初めての職業高校に来て、国語教師として、担任として、何ができるのか、何をしなければならないのかを考えながら、また新しい勉強をしていこうと思っている。

(県立小高商業高等学校教諭)

 

思いやりの心

石井ミイ子

 

いろいろやってみた。その中から手ごたえのあったことをいくつか紹介したい。

 

昨年の新学期はギャングエイジの三年担任として毎日悪戦苦闘していた。体は小さいけれど内に秘めたパワーは強力なものを持ち、毎日のように集団ごとにいざこざを起こした。子供の世界を大切にしながら集団での協同活動や仲間関係の在り方について指導しなければと思い、実態把握をしながらその指導を考えていた。そんな時私の目に入ったのは、学校の正面玄関前の石に刻まれた「たくましさと思いやりの心との言葉であった。どっしりとした大きな石は、毎朝通勤する私に「子供を正視せよ。教師がうろたえていれば子供も落ちつかなくなる。」と語りかけているように感じた。試行錯誤的ではあったが、とにかくいろいろやってみた。その中から手ごたえのあったことをいくつか紹介したい。

1)友の良さが話題に上る学級づくり

学級だよりに学校で思いやりの見られた場面を掲載した。これを読んで親子の会話もはずみ、進んで人のためになることをしようと話し合ったという報告もあった。

また、懇談会の折に保護者から子供の良い行いを話されることもあり、指導の一助となった。そのおかげで親切運動も高まり学級内が潤ってきた。

2)協力学習の場の設定

教科学習のあらゆる場に「一人ではできないが二人、三人と組めばできる」という場を設定した。

友達と力を合わせて学習する中で相手の立場を考えて行動できるようになってきたし、心と心が少し

 

 

 


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