教育福島0156号(1991年(H03)07月)-027page
になった。幸いにも、ファイトというエネルギーだけは持ち合わせていたため、念願の県大会、東北大会に優勝することができ、成就感に浸ってはいたものの、研修の必要性を教えられた時期でもあった。
教育雑誌等の輪読会を通して、「授業の質的改善の方法」「研修のあり方」などの重要性について薫陶をうけたことは、今なお、自分の考え方に大きな影響を及ぼしている。
機会があって、生徒指導の長期研修に参加し、登校拒否など不適応行動についての理論や事例等の研修の場に臨み、貴重な体験を得ることができた。そのため、以前より物事に対し幅広くとらえることができてきたが、反面、現実の対応では、慎重に扱えば扱うほど迷いや悩みも生じ、悪戦苦闘したこともあった。
やがて、「教育の原点」とも言われる障害児教育について研修する機会にも恵まれ、三年間、東京での生活を送った。
養護学校の子供達は、ハンディキャップを持ちながらも精一杯生きていた姿が、今でも忘れられない。
「子供から学ぶ」という視点は、毎日の教育活動の中で、創りあげては壊し、さらに創りあげては壊されたくり返しの中で再確認できた。発達評定と指導、評価と教育プログラムの設定、集団指導と個別指導のかかわ少などの一連の学習指導についても、ここで学び得たと思う。
現在は、管内教育相談を担当し、登校拒否など諸問題の相談にあたっているが、今になってやっと相談者として、共感できる立場に立てるようになってきたように思う。
かつて、上司から贈られた、「一期一会」の言葉の意味をかみしめ、今日までの折々のことを、心の糧として、二十一世紀に生きる子どもたちと共に、一層精進していきたいと思っている。
(いわき市立平第一中学校教諭)
千羽鶴
中島一枝
「両親はけんかばかりしていて家の中は地獄なの。離婚するかもしれないので急いで帰って来たの。会社の方は部屋長になったけどなかなかまとまらないし、ちっとも良い事がない。」
できる限り家から遠くへ離れたいと中学校を卒業するとすぐ三重県の紡績会社へ就職して行ったかつての教え子がとつとつと話している。
貧しかったのでずっといじめられっ子だったというY子。酒を飲んでは暴力をふるう父親から母親をかばって打たれたY子。こんな事もあった。
「痛い、痛い。Y子助けて。」
の母親の声に起こされてY子はタクシーを呼んで病院へ連れて行った。
昼間転んで足を骨折していたのだという。即入院という事になってY子は入院の準備をして再度病院へ。夕方は弟妹達に夕食を食べさせて又病院へ、と一日に何度も往復したのはY子が中学二年生の時だった。何回も何回も泣きながら彼女は自分をみがき、大人顔負けの気配りや仕事の段取りの良さを身につけてきたのだ。
私の教科係になったのが縁で色々話し合う機会も多かったのだが、精一杯生きているY子に何と言ってやったら良いのだろう。
「あのね、私の母が今入院しているんだけど、患者さん達の方が健康な人達より何倍も心の痛みや暖かさを知っているみたい。」
と極限状態で生きている人達の頑張りとお互いのいたわり合いに深く心を動かされていたので、その話を聞いてもらった。
「人間て弱いものよ。誰でも優しくされたいと願っている。でも優しさをあげる人もいないとね。仕事の続かないお父さんだってきっと苦しんでいるわ。優しくしてあげて。そしてつらい時ほどスマイルスマイル。」
折角来てくれたのに的はずれの話だったかなと自分を責めながら、日課になっている病室を訪ねると、母の枕元にY子からの見舞の花が飾られていた。隣の人のベッドにも。
「オラまでもらって。」
と嬉しそうなおばあさん。
それから一カ月後に、部屋の人と一緒に折ったという千羽鶴が届いた。『早くお元気になって下さい。』の添え書きがあった。仕事と学校で自由時間がほとんど無いY子達は睡眠を削って折ったに違いない。
その鶴はまもなく母と共に天へ昇って行ったのだが、母のバッグの中にはY子からの見舞の手紙が大切にしまわれていた。余程嬉しかったのだろう。
優しさの何たるかを知っていたのはY子の方だったような気がする。
(棚倉町立一向野小学校教頭)