教育福島0156号(1991年(H03)07月)-029page

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で妻と三人での生活が始まった。

息子は栄養を吸収できないため、日に日にやせていった。妻は、必死になって口に合うものを食べさせたが、ある時期を過ぎて体重が急に減り出し、黄疸がひどくなってきた。そんな中でも、おもちゃを見て笑ったり、寝返りをうったり、かわいいしぐさを見せることもあった。しかし、とうとう最後まで立つこともできず、話すこともできなかった。考えてみれば、話せなかったことは幸せだったかもしれない。「痛いよ。」「苦しいよ。」と言われたら、私達は耐えられなかっただろう。息子は、三回目の冬を迎えようとする十月、心不全で永遠の眠りについた。

私は、日頃、元気な子供達を相手にしているが、世の中には、障害と闘っている子、不治の病で苦しんでいる子、そしてその親がたくさんいることを決して忘れてはならないと考えている。

日々の教育活動でも、目の届きにくい点や潜在的なものへも十分に留意した指導をこころがけていきたい。

(西会津町立西会津中学校教諭)

 

素朴な疑問

梅宮康弘

 

じようなセリフを、私も口にした覚えがあるのだ。中学三年生の頃の事だ………

 

「先生、ここは先生達の部屋なんだから先生が掃除すべきだよ。」「掃除する人雇おうよ。」先日、生徒のそんな声を聞いた時『おやっ』と思った。同じようなセリフを、私も口にした覚えがあるのだ。中学三年生の頃の事だ………

「職員便所を僕達が掃除するのは腑(ふ)に落ちない。使っている先生が掃除すべきだ。」「職員室もそうじゃないか。」と、クラスで妙な盛り上がりが見られた。子供によく見られる短絡的な理屈と、舌足らずな主張で、自分達を正しいと思い込み、信じてもいた。担任の先生は、そんな僕達を、見守っていた。僕達の「正当な言い分」を聞き、要求実現しか考えられず「正しい耳」を持たない僕達を、弾圧することも、無視することもなかった。やれるところまで、頑張ってみろと言っているようでもあった。僕達はとにかく「正義」を押し通そうとした。僕達のとっても素朴な疑問を、クラス新聞の一面に(といっても一枚しかないのだが)大々的に載せ、職員室の全先生に配った。………僕らのクラスには、台風が何度も上陸し、自分の恐ろしさをつくづく感じたものだった。………しばらくして、熱病は、子供が手放したゴム風船のように、どこかに行ってしまった。僕達は黙々と掃除をする少年に戻っていた。(でも、熱に冒されている時も、掃除はしていたような?)

私自身が考えた事と同じ事を考えているな、と、なんとなくうれしく思えたのはほんの一瞬、「困ったな」と思う気持ちがだんだん大きくなっていった。私はどう言えば、どうすればいいだろう、と思ったからだ。(あの時は確か、教育を受ける者の姿勢、いやいや奉仕の心?何だったか忘れたが、とにかく口調と態度に「自分ありそう」というドレッシングをふんだんにかけたような。)昔も今も、「どうして」という疑問に対する答えには、苦労するものではないだろうか。質問が「常識」「慣習」「本質」に迫れば迫るほど、私は説明に詰まってしまう。しかし、違う角度から考えてみると、それらの「素朴な疑問」は生徒達の自我の現れなのではないだろうか。へ理屈と言われたらそれまでのような話でもいそれは彼らの自己発現なのだろう。よしっ、素朴な疑問を持ち続ける彼らを見守ヶ、一緒に考えて行くとするか。(………次はどんな疑問や意見が出るのかな、ちと気が重いが)

今度、中学時代の担任に、あの時の私達の様子や先生自身がどのようなことを考えていたのか聞いてみようと思う。

(県立塙工業高等学校教諭)

 

旅の名残り

星富子

 

たから、満員でも、いつものように、乗車口近くに席をとることができました。

 

その男(ひと)と出会ったのは、浅草から会津田島に向かう快速電車の中でした。自分一人の座席を確保するだけの気楽で気ままな旅でしたから、満員でも、いつものように、乗車口近くに席をとることができました。

乗降する一期一会の人々との出会いは、劇的でしみじみとした思いを強くします。湾岸戦争の真っ只中でしたが、二日間歩いた東京も横浜も

 

 

 


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