教育福島0158号(1991年(H03)10月)-027page

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ますが、それ以上に私達保育者とのかかわりはもっと大事になります。なぜなら、私達保育者が、園児の気持ちや親の願いを的確にくみとり、可能な限りそれに応えてやる、そうした過程の中であたたかな触れ合いを実践するところに、園児の感性は育まれ、実践力が培われると思うからです。

子どもは風の子、生活様式は変わり、世相の変遷はあったとしても、変えたくない、否、変えてはいけない要ていではないかと思うこの頃です。園庭からは、今日も元気のよい園児たちの歓声が聞こえてきます。

(下郷町立下郷幼稚園教頭)

 

視点を変える

佐藤宗信

 

このごろ、暇をみつけて山に登りたいと思うことがある。

 

このごろ、暇をみつけて山に登りたいと思うことがある。

昔のようにリュックを背負い、寝袋を持った登山ではなく、山歩きに近いものではあるが…。

夏休みのある日、生徒たちが学校の前にそびえ立つ五十人山に登るというので、私も同行した。わずか八八三メートル、往復二時間弱の山歩きではあったが、毎日眺めている山とは違い、そこには本当の五十人山の姿を見ることができた。

途中、これといった景観はなく、熊笹に覆われた山道をただ黙々と登るだけではあったが、その熊笹の中に可憐な山百合、名も知れぬ山草の花が咲いている。立ち止まると、赤松の木立の間を心地よい風が吹き抜け、油蝉や小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。

九合目を過ぎると、山道もなだらかになる。いよいよ頂上。そこは、まさに別天地と言ってもよい。辺り一面、青々とした芝生に覆われ、昔、五十人が腰を降ろしたと言われる大岩の上に立つ。東を見れば、請戸の浜が霞の中に広がり、西を眺めれば鎌倉山(九六七m)、日山(一,○五八m)がその雄大な姿を見せている。芝生に寝転び、青空を眺めていると、ふと、啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という句が思い出され、青空を渡る雲も、手を伸ばせば直ぐにつかまえられるように思えた。

「山を知るには、その山に登らなければならない」と、よく言われる。山そのものを雄大な、美しい山として下から全体的に眺めることも大切ではあるが、それと同時に、その山に生えている木々、生息している動植物など、部分的なものに目を向けたり、山頂から辺りを見回してみたりすることが、その山を「知る」ということであろう。

教育界も今、視点を変える一つの転換期を迎えていると言えよう。

個性尊重が叫ばれているが、個性を生かす教育を推進するためには、一人一人の生徒を正しく「知るにことが必要である。そのためには、従来の教師側からの一面的なとらえ方にのみ偏ることなく、多面的に生徒の姿を在るがままにとらえ、その良さや優れている点を積極的に見出し、生徒と共に実現していく努力が重要になってくるであろう。

このような視点に立って生徒の生活や学習の状況を見つめると、今までのような一次元的な評価観からは決してとらえることのできなかった彼らの「本当の姿」が、見えてくるのではないだろうか。

(葛尾村立葛尾中学校教頭)

 

佐藤秀治

 

一学期終業式の日、家の玄関をあけた途端、娘が飛んできて、

 

一学期終業式の日、家の玄関をあけた途端、娘が飛んできて、

「見て!見て!」

と言って、通知票を私に差し出した。靴も脱がずに通知票を開き、中を見て驚いた。娘が学校でもはりきって生活していたことが、評定からもお知らせからも手に取るようにわかったからである。

 

 

 


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