教育福島0159号(1991年(H03)11月)-028page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

うか。

便利さや合理性が求められる現在、古い道具や習慣が失われていく。「褄」や「張る」も、私たちの日常生活の中で確実に忘れ去られようとしている言葉である。古典を解釈していく上で、全く体験がない言葉を、どう読みとらせていくか、難しい時代になったと思う。

言葉の一語一語には、その時代ごとの人々のものの見方や考え方がこめられ、人間の本質的な在り方が表現されている。私たちは、その言葉から「心」を生徒に伝えていかなくてはならない。

古典を指導して半年が過ぎようとしている。古人との、時を隔てて通い合うものを、古典の世界からとらえさせたいと思い、日々を過ごしている。

(県立安積高等学校教諭)

 

K君のためらい

わたしのためらい

二瓶洋允

 

二年生の生活科「わたしの町たんけん」での出来事です。

 

二年生の生活科「わたしの町たんけん」での出来事です。

K君たち男の子のグループが、児童公園に出かけて行きました。彼らの活動計画は、公園の池にいる小さな魚をとることでした。K君は、「大きな魚はだめだけれど、小さな魚はとってもいいのだ。」と言うのです。わたしは、公園という公共の場の魚をとってもいいのかどうか、子供たち自身に気付かせようと思い、後からついて行きました。

公園に着くとすぐ、子供たちは池に向かって走り出しました。すぐには網を入れず、池の中の様子をうかがっています。

「あ、あそこだ。あそこ。」

突然、K君が叫び、池の中の魚めがけてザブンと網を入れました。

「とれた。とれたよ、ほら。」

と仲間の二人を呼びました。そして、持っていった虫かごの水槽に、小さな魚を入れて、得意そうに友達に話しかけていました。

「本当に小さい魚ならとってもいいの?」

と、わたしはK君たちにたずねてみました。四人はうなずきます。その様子に、わたしは魚を逃がすようにすぐ働きかけていいものかどうか迷っていました。そこで、

「一度、確かめてきたら。」

と促しました。K君は走って管理人室に行きましたが、すぐ戻って来ました。管理人さんがいなかったのです。四人はまた魚を深しはじめました。わたしは、もう少し様子を見守っていることにしました。

その時、散歩をしていたおじいさんが、K君たちを呼び止めました。「この池の魚をとってはだめだよ。」とだけ言うと、おじいさんは出口の方に行ってしまいました。

おじいさんに注意を受けるとは予期しなかったわたしは、K君たちがどう判断し、どんな行動をするのか見とどけることにしました。しばらくの間、K君たちは、虫かごの水槽を神妙な顔付きで眺めていました。そのうち、三人はK君を残して池の反対側に走って行ってしまいました。

わたしはK君のそばに行き、

「どうしたら、いいのかな。」

と腰をおろしながら、一緒に魚を見ていました。K君はみんなの方に、二、三歩行きかけたかと思うと、水槽を持って池のそばに行ったのです。

ところが、池の向こう側から、「K君、逃がすことないよ。せっかくつかまえたんだから。」

と、A君が止めました。K君は、A君と右手に持った水槽をかわるがわる見ています。わたしもK君のそばに行こうとしました。すると、K君は、池のふちにしゃがみ、水槽のふたを取って、水と一緒に静かに魚を池の中に逃がしてやったのです。

K君は迷ったすえ、自分で判断し魚を逃がしたのです。わたしが最初から、魚をとってはいけませんとか逃がしてあげなさいと注意することは簡単です。わたし自身、つい口から出そうになりました。K君の迷い、ためらい、そして自分での決断は大事なものだったと思うのです。わたしは、K君のそばに行き、肩をポンとたたいてやりました。

しかし、わたしはどこで彼に気付かせることがよかったのか、今でも迷いが残っています。

(福島市立福島第二小学校教諭)

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。