教育福島0159号(1991年(H03)11月)-045page

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ような誤解かもしれないのです。「(お宅の次女は)いよいよ、(中学)一年生ですね。」という意味で聞いたのに対し、「ええ、(長男が大学一年生で、仕送りが)大変ですよ。」といったふうにです。

今、どういう状況の中で誰の話をしているのかが明確でないと、このような状況になります。笑い話や漫談は、意識的にこの文脈のズレを作り、話を進めていっているのです。

障害がある子供達の場合、「メッセージ」「コード」が十分でないということに加えて、この周りの状況把握が適切に行えないので、コミュニケーションがとどこおる場合が多いのです。

 

三、コミュニケーション障害=「関係」の障害

 

これまでは、コミュニケーションがとれない、とれにくい状態を子供が話せない、人の話を聞けないからだというように、子供の側の要因のみを問題にする傾向があったのではないかと思われます。

本来、コミュニケーションとは、共通なものを分かち合うという意味の合成語です。コミュニケーションがうまく成立するかどうかは、相互の間が通じ合えるかどうか(--共通なものを分かち合えるか否か--)なので、その障害をどうしたら解決でき、乗り切ることができるかは、相互の関係における課題であるとみることができます。

つまり、コミュニケーションがうまくとれないということは、子供と母親、子供と教師といった「関係」の問題として考えるべきものなのです。決して、子供のコミュニケーション能力だけの問題ではないのです。

 

四、コミュニケーション障害への援助

 

−聞き上手になろう−

ことばは、話しことばであれ、書きことばであれ、コミュニケーションの一手段にしか過ぎません。つまり、ことばは、相手と自分とによい関係をつくっていくための道具なのです。道具を立派なものにするよりは、その道具を使って、どうすればよいコミュニケーション関係を作れるのかを考えることが重要です。

ことばのやりとりは、子供にとって楽しいことでなければならないのです。子供が音声を発し、親や教師がそれを喜ぶ。その喜ぶ様が子供を刺激し、何度も何度も音声を発するようになるのです。いわば、かかわり手が聞き上手になることが、コミュニケーションの成立する大前提なのです。子供達のことばを興味深く聞こうとするかかわり手の気持ちが、自分のことを何でも聞いてもらいたい、話してみようという子供の表現意欲を起こさせるのです。この表現意欲を起こさせるかかわりこそが、子供のことばの発達の援助そのものといえます。(表2)

 

おわりに

 

話しことばがないのでコミュニケーションがとれない、とよくいわれますが、決してそんなことはありません。周囲のかかわりの変化により子供の世界が広がっていった結果、ことばの面にもそのよい影響が出てくるのです。ことばの指導より、その子供の現在の生活の充実を図り、よいコミュニケーション関係を作ることこそ、今、障害児をとり巻くかかわり手がしなければならないことなのではないでしょうか。

 

表2 子供と付き合うための3ヶ条

1) きちんと子供の生活につきあうこと。

子供が主体的に生活できる環境づくりを行う。そして、子供が手助けを必要とする場で、適切に援助することによって、親の愛情が伝わり、しっかりと一人でできるようになる。

2) 子供の気持ちに共感すること。

子供の気持ちを否定しない。例えば、子供が一人で遊んでいる時などに、できるだけ一人で遊ばせておかないで、そばで見守り、一緒に喜んだり、驚いたりする。子供に遊びを教えてやろうとする気持ちを捨てて、共感する関係を育てることが大切である。

3) 子供の側に立って物事を見る。

大人の価値に照らして子供にものや事柄を押しつけてしまうのではなく、子供の側からの関係づけを大切にする。

 

 

 


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