教育福島0160号(1992年(H04)01月)-026page
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か。」
一日目が終わり、私の心の中にあった不安感は、次第にK君の可能性に対する期待へと変わっていった。
二日目になり、アスレチックが始まった。最初のうちは何とか達成できたためか、意気揚々と活動をしていたK君であったが、山の中腹にかかった頃から表情が硬くなってきた。「先生どこまで行くの。」「あと、何回やれば終わるの。」とぎれとぎれの言葉から、K君の本当につらい気持ちが伝わってきた。そして、K君は、泣き声になり、涙を流しながら活動をし、何度もやめようとするようになった。
「K君、頑張れ。跳箱だって跳べるようになったじゃないか。水泳だって、顔をつけられるようになったじゃないか。もう少しだ、自分の力で最後まで頑張れ。」
私は心を鬼にして、くじけそうになるK君を励まし続けた。
K君自身の涙ぐましい努力と周囲の応援により、K君は他のグループよりかなり遅れたが、ついに最後までやり遂げることができたのである。
ともすれば、忙しさの余り、「子供の無限の可能性」について考えることが少なくなりがちな私にとって、K君との出会いは得難いものであることを痛感した。
今回の宿泊訓練をふり返るとき、K君の可能性を信じきれなかった自分を反省するとともに、これからも、できるだけ素直な心で「子供の無限の可能性」を信じ続けられる教師でありたいと思っている。
(金山町立金山小学校教諭)
「先生、お母さんがね…」
眞部知子
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新学期が始まって間もない頃一年生のM子が、母親に手を引かれ、竹田分校に来た日のことを今でも鮮やかに覚えている。M子の顔は何かにおびえているようにこわ張って見えた。身体的にも、能力的にも他の子となんら変わりがなさそうなのに、手を引かれて歩くのがやっとで、腰を下ろすことも、立つこともできないほどの硬直状態であった。
M子は「学校緘黙(かんもく)症」の子どもであった。家庭では支障なく振る舞うことができるのに、学校へ来ると、喉に錠がかかってしまったように声を出すことができず、動作が停止してしまう。幼いM子がなぜこんなに頑(かたくな)に心を閉ざさなければならなかったのだろうか。彼女の姿を見ていると私は切なく、悲しくなって「何をそんなに恐れているの」「何を訴えたいの」と心の中で叫ばずにはいられなかった。「この子を何とかしたい。」という気持ちで一杯だった。
翌日から彼女の心を開くための生活が始まった。M子の手に私の手をそっと添えてみた。わずかな反応でも示してくれた時は抱きしめ、頭を撫で満身の笑みで受け止めてやった。担任との一対一の時間を大切にし、身体を動かす活動を多く取り入れ、担任と共感できる場を多く作っていった。無理に話をさせたり、行動させたりせず、自然な雰囲気作りに心がけた。
ある日のことである。突然M子がはっきりした声で、目を輝かせて母親の話をしてくれたのである。その日の感動を私は終生忘れることはないであろう。M子と生活してから一年経っていた。担任と二人だけの世界から、徐々に仲間たちのいる学級へとM子の活動範囲が広がっていった。指人形劇、エレクトーン演奏、バトミントン、水泳など、M子の自己表現力を高めるために無我夢中の指導が続いた。
M子は今、四年生。緊張場面以外の学校生活では元気に駆け回り大声で笑うことができる。M子がこのように変容できたのは全職員がM子を一人の人間として認め、尊重し、励ましたこと、それぞれの障害を持つ子どもたちがM子を仲間として暖かく迎え入れ、集団の一員として認めていたことが大きな要因であろう。どんな子どもでも、愛情を持って接し、個々の人格を理解してやれば必ず心は開かれる。そう確信した。
M子との出会いは今後の自分の人生のあり方を、そして教師としての生き方さえも改めて教えられたような気がしている。
M子が病弱養護学校という特殊な枠の中だけでなく、普通の社会でも力を存分に発揮できる日は、もうそこまでやって来ているのかもしれない。時々、このM子に我が子以上の愛情を感じていることがあって、そんな自分にはっとすることもある。
(県立会津養護学校竹田分校教諭)
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