教育福島0162号(1992年(H04)04月)-022page

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はり失敗の連続には変わりがなく、自分の不甲斐なさに腹立たしくなることもしばしばである。

しかし、そんななかにも、学級担任とは違った目で各学級を見つめ、学級担任と同じ目をもちながら学校を捉えることができないかと考えるようになってきた。あまり背伸びはせず、自分でできることをしていこうと思うようになった。

本校のように全校児童二百人に満たない小規模校では、学級の枠にとらわれず、全職員がかなりの子ども達と関わることが多くなる。家庭的な雰囲気で、子ども達は素直で教師に親しみをもって接している。反面、刺激が少なく、子ども達は現在の自分に満足し、互いに競い合うという競争心に欠けることが多い。これは子ども達だけでなく、教師自身にも言えることである。教師が予め子ども達の可能性を先取りしてしまい、固定観念によって子ども達を見てはいないかということである。

私自身、学級担任を離れ、一歩退いて子ども達を見つめると、また違った面に出会うことがある。週に何時間かしか接する時間がないので、子ども達の捉え方も一面的にならざるを得ないが、その分、新鮮な目で見ることができる。子どもに対する先入観がないためか、授業中の子ども達の反応や理解の度合に予期していない現象が起き、意外な子の反応に驚き、学級全体でその子を認めることがある。しかし、私自身楽観的に子ども達の可能性を信じている訳ではない。子ども達を予め決めつけることをせず、もっとできるはずだと励ましてやることが大切だ思う。

子ども達の可能性を信じ、しかも子ども達のマイナス面もリアルに知った上で、なお信頼し励ましていくことのできる教師を目指していきたい。

(いわき市立川部小学校教諭)

 

尾瀬の山々に向かいて言うことなし

溝井力男

 

桧枝岐の大杉や赤岩分校の仲間が、髪に白いものをつけ懐しい顔でそこにいた。

 

昨年、文化の日の表彰で、会津の同期の桜に会った。会津桧枝岐の大杉や赤岩分校の仲間が、髪に白いものをつけ懐しい顔でそこにいた。

昭和三十七年、職員録に「会津田島駅よりバス一八〇分、内川下車徒歩三〇〇分、大杉分校六〇〇分、赤岩分校七〇〇分」とあった。県庁の採用面接で山の多い桧枝岐を希望したら、南会津教育事務所で「出好きの教師がいて助かる。」と言われて会津の教師になった。桧枝岐の本校で手厚く歓迎されて一週間、ジープで七入へ、樵平から御池は雪が深かったが小沢平からの燧ヶ岳は◆々として美しかった。大杉分校から砂子平を下り、つり橋を渡って新潟県へ、再びつり橋を渡ると赤岩平に出る。只見川に向かい合って新潟側の鷹の巣分校と赤岩分校があり、四〜五米の豪雪地帯は十数戸の開拓部落であった。人々は自然と共に生き、生徒たちはたくましく生きていた。

学生の頃「そんなに山が好きなら炭焼きになったら。」とまで言われたが、生徒と共にありながら山にいるのは最高の喜びであった。こんな自分にも「山」がなくなったらどうであろう。実は考えさせられたことがある。腰痛で九〇日間入院した時、山の無い、山を歩けない人生など考えられないほど不安であった。二度目は、筑波の生徒指導研修で関東平野での毎日であったが、山の無い平坦な環境も又心が落ち着かないものであった。小さい頃より山を見て育ったせいか、山があると心が安まり、同時に峠や頂きに立ち、その向こうに行きたい衝動にかられる。

白河の街から那須に向かい、峰の茶屋の峠まで二時間で行ける。この峠から会津の峰々の中に燧ヶ岳が一段高くある。ここは白河と会津の間にあって、自分と山との関係が見えるところでもある。遠くヒマラヤへの旅もここが出発点であった。目的と実践は生徒会活動の「自主前進」の旗、氷河を渡る道標は女生徒たちの手造りだったことなど、共に生きた想い出にあふれている。

尾瀬とのかかわりの始まりは高校時代にある。山岳部で最も信頼していた友を甲子山で失った。彼はいつも尾瀬の山旅に想いを寄せて、まだ見ぬ水芭蕉をこよなく好んでいたので、自分の学生時代には夏休み毎に必ず尾瀬から会津を越えて帰省した。彼の夢の一株を甲子山の坊主沼に植えたのもその頃である。初夏の甲子の便りに花の話があるのはうれしい。

日曜日、天気がよいと朝五時に家を出て、燧の見える峠に立つ、一緒に友がいたり、子どもたちがいたり山のある人生を楽しんでいる。

(矢吹町立矢吹中学校教頭)

 

 

 


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