教育福島0162号(1992年(H04)04月)-045page
博物館ノート
天明大飢饉の図
会津高田町教育委員会所蔵県立博物館寄託
天明の飢饉は、天明期(一七八一〜八九)に諸国で発生した大飢饉のことである。これは、享保期(一七一六〜一七三六)の享保の飢饉・天保期(一八三〇〜一八四四)天保のの飢饉と並んで「近世三代飢饉」といわれる。
原因は諸国での天候不順による凶作等で、その結果、米価の高騰→米売買の停止→百姓の逃散→騒動→食料の窮乏→餓死者の続出という最悪の惨状となった。人々は草根からはじまり牛馬・犬猫、最後には死人の肉まで食したという。このような惨状となった原因は、天候不順だけではなかった。激しい年貢収奪によって、農村が荒廃していたこともその大きな要因のひとつであった。しかし、農村・百姓の再生産を志向する藩政改革を推進していた松平定信の白河藩では、死者を出さなかったと伝えられている。
左は、雪渓による天明大飢饉の図である。家の脇の竹林には人骨が転がり、死体には烏が群がっている。家のなかと外では年寄りと子供が萎れた乳房を吸っている。家の前では人肉を食らう姿も見られる。
当館では、このほかにも天明飢饉に関する史料を展示している。そのひとつに天明飢饉のいろは歌(双葉郡葛尾村松本忠致家文書)がある。そこでは、以下のように歌われている。
イ 今までにはなしも聞かぬこの飢饉
ロ 老若男女をしなめて
ハ はらをへらさぬ者もなし
ニ にたもの食へと野山草
ホ ほうハふくれて腹ハはり
ヘ 平生煩ふ人多く
ト とかく薬りもきかはこそチ ちさとも同し身の難儀
具体的な惨状が手に取るように分かる。これを契機に、領主たちは備荒貯蓄政策を開始した。数十万人の死者を眼前にして、ようやく政策の欠陥に気が付いたのである。
天明大飢饉の図