教育福島0163号(1992年(H04)06月)-025page

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とても困難であるような気がします。唯一残された道は、スポーツなのかもしれません。

私自身の人生でも、競技者として指導者として、いくつかの涙を経験しました。しかも、その涙は、中途半端な時は、決して流れないのが普通であり、そのことが涙の尊さを高めてくれるのであります。

試合の勝敗で泣き、別れのつらさで涙をこらえることもしばしばでした。小学生の競技者は、甲子園児達と同様に、どんな相手にも、どんな逆境にもへこたれず挑戦していくのです。そのすばらしい姿に感動し続けて、ミニバスケットボールの指導を十五年も続けてきました。

十才に満たない年齢でボールを握り、何ともいただけない動きの者が数年後の六年生になると、見違える様なプレーをするのです。伸び盛りの子供達は、教えるもの全てを吸収するかのようでもあります。子供達は、はかりしれない無限の力を秘めているのです。だからこそ、教えがいがあり、決してごまかすことのできない厳しさがあるのです。

指導者としての十五年は、決して優秀なものではありませんでした。しかし、指導者として、

○バスケットに入りたい者は、誰一人として拒ばないこと。

○練習に来る者すべてに、練習の満足感を与えて帰すこと。

○バスケットで培ったことが、学校や家庭生活で向上につながること。

〇将来もつながりのある人間関係を育てること。

○将来のスポーツ人生に、何らかの形で役立てられる力をつけること。

などを目標に実践してきたことに対し、誇りをもっています。

現在、教え子達も数百名を越すようになり、それぞれの分野で活躍しています。ある者は、甲子園の出場を果たし、ある者は、陸上の全国大会で入賞しています。そして、本業のバスケットでも、高校、大学、一般でそれぞれに活躍している様であります。

指導者として、多くの子供達と知り合えたことが、私の一番の宝物となっています。そして今、その子供達の中から、私と同じ教師の道を歩み、バスケット指導を通しての人間形成に、情熱を燃やそうとする者がでてきているのです。何とも嬉しい限りであります。立場は違っても、いつかまた、共に汗と涙を流せる機会が巡って来ることを夢みています。

(いわき市立湯本第二小学校教諭)

 

生徒指導から得たもの

家田志津子

 

徳や生徒指導など、全てをこなせる教師でありたいと思うようになったのです。

 

病が私を変えました。十年間、がむしゃらに合唱指導に打ち込んだ結果、東北大会では好成績を修めることができました。ところが神は残酷なものです。意気込んでいた私に病を与えました。退院してからも思うように回復せず、泣きながらの毎日でした。焦りや苦しみがあり、悩みの日々を送っているうちに、音楽の指導だけにこだわっている自分が小さく思え、道徳や生徒指導など、全てをこなせる教師でありたいと思うようになったのです。

そんなとき、私は登校拒否の生徒のいる一年生の担任となりました。今までの私は、問題傾向のある生徒には言葉のかけ方も知らず、生徒のおかれた家庭環境に同情し涙ぐんでしまったりと、情けないありさまでした。改めなければと考え、勉強し直し、生徒指導に力を入れ始めたのです。ところが、問題は私の意に反し予想以上のもので、入学式後、全く登校しませんでした。幾度も家庭訪問をしましたが本人とは会えず、玄関先で声をかけてくるだけの日々が続きました。

一年二年と同じ状態でしたが、三年の二学期末に、本人と会って話をする機会を得たのです。今の自分から脱皮しようと勇気を出している様子が、力を入れた握りこぶしでわかりました。緊張した空気の中で、三時間が過ぎた時、その生徒は、「私は卒業したい」と突然言い出し、これをきっかけに登校するようになりました。登校といっても十時ごろの登校で、私が車で送迎したのです。この時期は、高校受験のための願書指導や調査書作成のため、毎日が忙しく厳しいものでした。しかし、この事で立ち直ってくれればと思い、やり通したのです。卒業式当日には、他の生徒と同じ姿で、ひょっこり教室に現われました。最初、誰なのかわからず、クラス中が戸惑ったのですが、誰からともなく拍手が沸き、彼女をあたたかく迎えたのでした。私は、不登校生徒が登校してくれた事はもちろんのこと、思いやりの心をもったクラスの生徒たちにうれしさがこみ上げてきました。

 

 

 


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