教育福島0164号(1992年(H04)07月)-022page

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をつけたことがなく、半ばあきらめていただけに、見つけた時の感動はひとしおであった。

おじさんとの出会いから、野草の魅力を徐々に感じるようになり、山野に出かける機会も多くなった。珍しい野草を見つけると、フィルムにおさめた。また、子どものころによく見かけたアズマギクとは、ここ十年来出会っていないが、自然環境の変化で消えていく可れんな花の命をいとおしくも思う。

ところで、一月の陽だまりに顔をのぞかせたチューリップの芽に、両手で土をかけていた校長先生が忘れられない。「校長先生、何してるの」の声に、「まだ寒そうだから、洋服着せてあげてるの」と、やさしく諭す校長先生に、「わたしもやっていい」と手伝う子どもたち。感動体験を通して心の教育をしていた校長先生のお姿も、今では懐かしい。動物や植物の願いに耳を傾け、そのものの立場で考えることは、子どもたちを教育する道に通じるようである。感動体験の少ない子どもたちに、美しいものが美しいと見える心を育てたいと思う。

 

る。気孔が破れ放出した香りに気づいてくれたのだと思うと、とてもうれしい。

 

鯉のぼりが風に舞う日の午後、桜の木の下を歩くと、木の香りが流れてくる。芽吹いた葉に顔を寄せていると、「何やってるの」と走ってきた子がいた。私は急いで葉を一枚とり、指でちぎって、その子の鼻に近づけてやった。「いい匂い」と小声で言う女の子。模倣好きの男の子が、次々と葉をちぎっては鼻に当てて喜んでいる。気孔が破れ放出した香りに気づいてくれたのだと思うと、とてもうれしい。

山野に野草を探しに入ると、独持のすがすがしい香りが漂っていて、気持ちがよいものである。最近では体によいことが証明されているとか。私たちを守ってくれている山野の役割と自然を愛する心を子どもたちと一緒に考えていきたいと思う。

(相馬市立飯豊小学校教頭)

 

子どもたちからのプレゼント

安生昌弘

 

なる。そのような私が最も苦労しているのは、子どもの心をつかむことである。

 

私は今、六年生四十名の担任をしている。五年生からの継続ではないので、今年度一年間限りの担任ということになる。そのような私が最も苦労しているのは、子どもの心をつかむことである。

ところで、この四月から担任しているクラスの児童は一味達っている。とにかく休み時間になると私の近くにやってきては、いろいろと世話をやいてくれるのである。例えば、名簿にゴム印で児童氏名を押していると、数名の男子がやって来て、次のゴム印を用意してインクをつけて渡してくれる。押し終わったゴム印は、私の手から取りもどされ、箱の中にもどされるのである。また、掲示用の時間割表を作っているときなども数名の女子がやって来て、私の手から時間割表を取り去り、いっしょに遊んでくれと言わんばかりなのである。

これは取りも直さず、昨年度担任の先生と子どもたちとの間に信頼関係がしっかりでき上がっていた成果である。その恩恵に私もあずかり、ただ感謝するばかりである。子どもたちは、昨年度担任された先生にきっと多くの「プレゼント」を頂いたのであろう。

子どもたちは教師が「プレゼント」をすれば、「プレゼント」を返して応えてくれるものだと思う。私も素晴らしい「プレゼント」を一人の子どもからもらったことがある。担任したのは五年生のときの一年間だったA子から、私が転勤した後に一通の手紙が届いたのである。そこには「先生に担任してもらった一年間、幸せでした。」と書かれていた。A子はおとなしい子で、学習を苦手としていた子だった。思い出してみると、ほんの少し個別指導をして計算を教えてやったにすぎない。しかしながら、A子から私への身に余る「プレゼント」が届いたのである。それに見合うだけのことをA子にしてはやれなかったように思う。後悔だけが残っている。ほんの小さなことでも子どもたちにとっては大きな出来事なの

 

 

 


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