教育福島0164号(1992年(H04)07月)-023page
であろう。だとすれば、もっともっと何かをしてあげられたのではないかと…。
今私は、担任している四十名から昨年度担任された先生に代わって「プレゼント」をもらっている。卒業までの数か月間で、子どもたちからの「プレゼント」に応えられるような「プレゼント」をしてあげたいと思う今日この頃である。
(小野町立小野新町小学校教諭)
“尾崎豊の死”に思う
岩◆淳子
行儀よくまじめなんて出来やしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続けあがき続けた 早く自由になりたかった−
先日、突然の死で報道をにぎわせたロック歌手、尾崎豊の「卒業」という曲の一節である。十代の神様と言われた彼の死は多くの若者にショックを与えたようだ。
この春卒業したY子も尾崎の信奉者だった。二年生のクラス編成で私のクラスになった時の印象は、おとなしくて引っ込み思案、いつも本を広げている読書好きな生徒という感じだった。十日に一日位の割合での欠席が気になり、後半になると連続して休むようになった。初めのうちは腹痛や頭痛などと家庭からの連絡があったが、おかしいと思いこちらから電話をしてみると「学校に行きたくないと言っている。」とのこと。三年生になって、朝迎えに行ったり、個人指導をしたりして何とか一学期を過ごしたものの、十月には本格的な不登校になってしまった。その間、本人と話をしたり、クラスの者と相談したりして原因をつかもうとはしたが、これといって決定的なものをつかむことはできなかった。欠席しはじめた最初の家庭訪問の時、Y子が言った「クラスの人達の話に入っていけない。一緒に笑えない。」という思いがすべてだったのかもしれない。
学校の話をするとかたくなになってしまうので、共通の話題をつくるために、彼女がファンであることを知っていた尾崎のテープを貸してほしいと頼んでみた。彼女ははにかみながらもうれしそうだった。それまで名前だけは知っていたが、曲を聞いたことはなかった。大人や社会に対する反発や怒り、自分自身をどうしていいかわからない不安やいらだち、そんな詩が、声をふりしぼるように、吠えるように歌われるのだ。私にはY子の教室での印象と尾崎の歌はどうしてもかみ合わなかった。また、それだけに彼女が学校に来られないのもわかるような気がした。おとなしく引っ込み思案に見える彼女の心は、本当はとても激しいもので、クラスにはそんな本当の自分をぶつけられる場や友を見つけることができなかったのだろうと思う。
尾崎の死が報道された次の日、専門学校の制服を着たY子が学校に私を訪ねて来た。「先生、学校楽しいよ。友達もいい人ばっかりだし。」そう言った彼女の笑顔に、自分の居場所を見つけた安心と喜びを感じた。
(川俣町立川俣中学校教諭)
普門館にて
阿部裕治
東京都杉並区にある普門館は、五千人使用の大ホールで、かつて来日した、今は亡きカラヤンとベルリンフィルも演奏した会場である。そのホールのステージに今、私と生徒が立っている。
スポットライトが明るくなると、「東北代表、福島県原町市立原町第二中学校…」とアナウンスが流れた。ステージから見たホールは、巨大な宇宙船の中にいるようで、その広大さに圧倒された。
生徒たちの緊張しているのが手に取るように分かる。私のタクトがおろされ、演奏が始まった。張りつめた雰囲気の中で、今までの努力のすべてを出そうと、心を込めて演奏する生徒たち。三年間の思い出が次か