教育福島0165号(1992年(H04)09月)-024page

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活していけるかもしれないな。」

などと車内論争が盛り上がった。

よく雑誌のグラビアに、人間とリスが遊んでいるヨーロッパの公園風景が見られるが、日本では残念ながらそのような場面は見られない。

今でこそ、私も自然大好きの一人だが、子どもの頃、道路や庭先でスズメなどを見かけると小石を拾い、投げつけたものだ。(それは、ほとんど習慣的であった。)

大学の同級会で、酒が入り、よもやま話の続く中、何かの拍子にこのことに話題が及んだ。小動物を見つけたら、石を投げつけるといった石器時代的な衝動的行為は、私の個癖ではなかったらしい。

私たちのバカ話を、やっとこ聞いておられた英文学を専門とする恩師が、ぐっと私たちの方へ乗り出し、

「確かに、そんなことがあったね。子どもだからゲーム感覚もあっただろうが、一昔前までの日本は、食べることにいつも不安を感じていたからね。特に戦後の一時期はひどく、日本人のだれもが空腹感で、小鳥がタンパク源に見えたかも知らんよ。だから、万が一、″小石が小鳥に当たれば腹の足しなる″と無意識に思っていたのかも知れんな。」

と、民族の歴史的背景を踏まえ、解説気味に話された。(この場合、タンパク源とか腹の足しといった言葉は、体験していない者にとっては出てこない表現であるので、どうやら恩師にも身に覚えがあるらしい。)

一時期、ほとんど姿が見られなくなっていたイナゴやホタルが、再び見られるようになってきたことは、うれしいことだ。ムササビが市役所の近くの杉の木に住んでいるらしいとか、マスが久慈川を上っているのを見かけたなどという話を聞くと、とてもうれしくなる。

身近な自然を大切にして、豊かな自然と私たちが共存していけたらと思う。

(県南教育事務所指導主事)

 

みんなちがってみんないい

 

室井紘子

 

「みんなちがってみんないい」これは、教室に掲示してある詩の題です。

 

「みんなちがってみんないい」これは、教室に掲示してある詩の題です。

四月、三年一組の子ども達と出会った時「この子ども達を全面的に認め、受け入れることから学級づくりを始めよう。」と考えました。その時にこの詩を思い出し、掲示することにしたのです。

先生方の教育実践に関するレポートを読ませていただいたり、いろいろな本を読んだりしますと、いい言葉やいい詩にめぐり会うことができます。そんな時、子ども達に読んであげたり教室に掲示したりして来ました。この詩も、ある先生が「認め合う学級づくり」のために授業で使用したものです。

この詩を掲示した次の日、この詩は何を意味するのかについて子ども達と話し合いました。すると、子ども達は私が予想した以上にしっかりと理解し、受けとめていました。

二十四名それぞれが、その人にしかない良い面を持ち、一人一人がちがった面を出し合うからこそみんなで伸びることができ、楽しい学級にできることを確かめ合いました。

数日後、理科の学習で野外に出かけた時のことです。モンシロチョウの卵を取って学校に帰る途中、上手にふじの花が咲いているのを見つけました。あまりのみごとさに立ち止まって見とれていましたら、一人の男の子が走って行って花を取ると

「先生、はい、かんざし。」

と持って来ました。その子はいつも友達に乱暴をして毎日私に注意されている子どもでした。でも、何げなく野の花をプレゼントできるやさしい心を持っていたのです。私はその心づかいが嬉しくて早速髪にかぎってポーズをとったら、子ども達が

「先生、おひめさまみたい!。」

と言って喜ぶのです。私はその時

「もう少し若ければ子ども達の喜びはもっともっと大きかったろうに。」

と思うと、どうしようもない寂しい気持ちになりました。でも、子ども達の笑顔を見ていたら「みんなちがってみんないい。」を思い出し、「年配には年配の良さ、私には私の良さがある筈」と思いなおしました。

子ども達と歌を口ずさみながら歩いて行くと、建設作業をしていた職人さんが

「先生、ふじ娘になっていいこと。」と声をかけくれました。私は、

「年を取り過ぎたふじ娘だけど・・・。」

とテレながらも幸せいっぱいでした。

子ども達の個性を伸ばしながら、私も私らしく指導し、生き生きと活動できる学級にしたいと思います。

(田島町立荒海小学校教諭)

 

 

 


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