教育福島0165号(1992年(H04)09月)-028page
常に学年のトップクラス。これまでほとんどの困難を自分の努力で乗り切ってきたのだろう。
しかし、そんな彼が大会の2週間前に初めて弱気な言葉を班ノートに書いてきた。「……俺は今度の大会でもH達に勝てそうもないなあ」表にはださないが、心の中で激しく自分と闘っているようすがにじんでいた。どうにもならない大きな壁に向かい、一生懸命もがいている姿が伝わってきた。
三千メートル、彼はライバルに周回遅れとなっていた。今日までのN男のひたむきな努力、不屈のがんばりを知っているクラスメートや全校生は、一つになって「ラスト一周、ガンバレ!」と熱い声援を送った。しかし彼はどうしたことか、ラスト一周をせずゴールへ入ってしまった。応援席のテントに戻ってきた彼は一言、「先生、俺一周足りなかったんですか。」あとはことばにならない。彼の無念さが伝わってきた。三年間の最後の大会で失格。うつむいたままの彼の一層はふるえていた。
翌日の学級通信を、私はN男への願いをこめて次のような言葉で結んだ。「……人それぞれに、いろんな思いがあったろうが、中三の一つの思い出になったことだろう。喜びの涙を流せればそれにこしたことはないが、それだけではない。くやしくにがい涙を流すことも人生には必ずある。そういったくやしさを、これからの人生のバネにしてほしい。がんばれ!」
彼は今、秋の駅伝大会にむけ、グランドを走り回っている。彼の新たな戦いが始まった。
生徒一人一人の心の中にドラマがある。その小さなドラマを、できる限り熱く、鮮烈に彼らの心に刻んでやりたいものである。
(会津本郷町立本郷中学校教諭)
異文化に触れて
佐々木礼子
一九八九年の夏、わたしは友人とフランスとイギリスを旅行した。それはわたしにとって、二度目の異文化との接触であった。
なるべく格安のツアーを申し込んだ。安いからには必ず理由があるものである。まず、自力で飛行機を乗り継がなければならない。シンガポールの空港で乗り継ぎ方を英語で説明されたが、何を言っているのか分からない。それでも友人がいてくれたので、何とか乗り切れた。パリを散策するには、地下鉄が便利である。でも、切符は何と言って買えばいいのだろう。道を聞きたい。親切にしてもらったのでお礼が言いたいのに……。次々に言葉の壁に突き当たった。何をするのにも、自分の意思を相手に伝えられない不自由さで、苛立ってくる。
ロンドンの街でトラックの運転手に道を尋ねると、こんな表現をしてくれた。「交番が最も良い道案内人だ」と。さりげないユーモアを感じた。
帰りの飛行機では、わたしと友人の席が離れてしまった。間に三席ある。そこに七、八才ぐらいの少年が座っている。わたしたちが不便そうに話しているのをじっと見ていた少年は、家族らしい人達と何やら話していたが、わたし達に英語で話しかけてくる。どうやら「席を交換しよう。そうすれば、あなた達は、となり同志になれる。」と言ってくれているらしい。席を換えると彼はいろいろ話しかけてくるが、よく理解できず、会話が進まない。それではと、鶴の折り方を教えてあげた。少年は大切に鶴を折りたたみ、バックにしまった。こんな小さな少年が、見ず知らずの私達に気をつかってくれている。そして、他人の作った物を大切にしてくれる。どんな環境で育てられたのだろうか。
帰国後、日本語で話せることがうれしかった。日本語が使えない不自由さを、何日か味わう。すると、日常、国語と言っている言語が、日本語なのだという意識に変わってく